2009年3月9日月曜日

抗がん剤治療⑧めまい、たちくらみ、胸の痛み

抗がん剤の副作用の中には、非常にマイナーなものもあります。
風評とか本の中にでてこないその人特有の副作用、というのもあるようです。
わたしの場合には、前半に行った真赤な抗がん剤、ファルモルビシンとほか二種の混合剤のときに胸の違和感を感じました。
気管のどこか途中にコルク栓をつめ られたような感じなのです。
花粉症の時期にあまりに咳が激しくでて、胸のあたりが重く圧迫されたかんじになるんですが、
それと似ていました。
ただしせき込んでもいないのにコルク栓がつまっているかんじ、です。
プラス、抗がん剤投与の2,3日目に胸に痛みがくるのです。
心臓を締め付けられるというのではありません。
肋間神経痛のようなかんじ、でしょうか。
診察のときに主治医にそのことは伝えはしたのですが、聞いたことないなあ、
知らないなあ、とのれんに腕押し返答。
外科の先生は、どうも治療後の患者の個人レベルの声には興味がないようでして・・・
というか、うかつに想像でものを言ってもしょうがないわけで、きっとわからないのだな、
と思うことにしている今日この頃です。

次に後半に使ったタキソテール剤のときには、めまい、たちくらみがひどくなっていきました。
歩いていて突然目の前が真っ暗になり、気づくと道端で倒れていたということもあったくらいです。
誰も助けてはくれなかったという事実にショックを受けたり、
助けられる以前に、わたしが倒れた場所は人どおりが少なく、誰も通らなかったのかも、
という想像をしてみて、またこれも怖いことだな、と思ったりしました。
目の前が真っ暗になって倒れたのだから、副作用で貧血になったのでは?と思い、
診察のときにまた主治医に告げました。
しかし血液検査の値では、わたしは貧血という状態ではないようで、先生はしきりに
貧血じゃないよ、たちくらみでしょ?と繰り返すのです。
これってどう違うの?????ってのがすごく疑問でしたが、ついぞはっきりした
答えをもらうことはありませんでした。


思うに、メジャーな副作用について医師に、外科医に相談しても、本にのっている程度の返事しかこないし、マイナーな副作用が出てきて不安で相談しても、力にはなってくれないし、
癌治療というのはこんなところにも、困った問題が潜んでいます。
もしかしたら内科の先生のほうがそのあたりの意識とか情報とか知識はあるのかもしれない。
末期の肺がんで他界した母は、手術なんてできる状態ではなく、呼吸器科内科、肺がん専門の主治医につきましたが、副作用で患者がどうなるという話は、よくわたしたち家族にも説明してくれたし・・・

そんなときに力強いのは、患者同士の情報交換です。
それぞれのがん患者で励ましあう会などがありますし、癌、あるいは難治性疾患の患者会でも
医師や医療関係者を巻き込んでさまざまな情報が紹介されています。
ネットなどで検索して、わたしもよく読み漁っています。
また同じ病院で知り合った仲間、偶然同じ病気だとわかった周辺の人々と親しくなって
教えてもらうその人の症状や体験。 
それらを自分のものと比較したり、あてはめてみたりしながら、自分の体のことを
納得していくのが遠回りのようで一番の早道だとわかりました。

癌って、学ぶ気をもってつきつめないとなかなかつらい病気かもしれない。

抗がん剤治療⑦白血球1000


抗がん剤治療といっても薬の種類は多く 、副作用はさまざまです。
その前に、癌とひとくくりにいっても種類が多く、乳がんにしろ、肺がんにしろ、胃がんにしろ、大腸癌にしろ、もうそれぞれ違う病気である、と考えた方がいいのです、とは医師の言葉。
かかってみてわかったのですが、それぞれ癌によって治療方法とか予後の取り方とか、どのくらい再発しないでいれば治ったと言えるのかの基準など、まったくばらばらです。 癌の広がりかたとか、成長のしかたも全然違います。


という出だしで書いてみてはいますが、自分が癌になってから仲良くなった癌仲間の人たちと話をしていると、抗がん剤を投与された場合の吐き気と、投与後にやってくる白血球のダウンは程度の差こそあれ、みんなあるようです。
髪の毛が抜けるという副作用はすごく目立つ副作用なので、ほとんどの人が抗がん剤を使うと毛が抜けてしまうというイメージを持っていると思いますが、これは出てこない抗がん剤もあるようです。
わたしと一緒に抗がん剤治療に通っていた年上の友人は大腸癌ですが、彼女は吐き気と闘いながらも最後まで毛がふさふさとしていて、とてもうらやましかったものです。
さて、ところで本題の白血球ですが、これはもうかなり下がりました。
3800~9800くらいという値を示す白血球の数が1000までダウンしました。
白血球が下がると、すくに感染症を起こしたり、体のキズが悪化したり、風邪、病気にかかりやすくなるので、抗がん剤投与のあと、わたしの場合だと10日目くらいに病院にいき、血液検査。
数値が低いと白血球をあげる薬を注射してもらいます。
これは2日か3日おきにしてあげていくのですが、毎回7000円くらいかかるので、ふところが痛いのです。そしてようやく元通りの白血球?というところで次の抗がん剤、と進んでいきます。
予断ですが、このころの私の治療費はつきに8万ほどもかかっていまして、この高額の治療費のために癌治療がなかなかできない人々も多いのです。なんとかならないものでしょうか。
癌は国民病というか、誰でもがかかる普通にして多い病気なのですから。
わたしの場合は、がん保険さんありがとう、というかんじでした。
かけていなかったらとても対処できなかったでしょう。
前にも書いたのですが、わたしの白血球の数はどうも人より少なく、今も検査で数値を見ると平常時で3800くらい。最低のラインです。
ところがこれは自分の勝手な解釈ですが、わたしはこの人より普段から少ない白血球のおかげで、抗がん剤治療の最中でも白血球が落ちてしまったからといって体調を崩すことが少なかったように思うんです。
医師は、この数値ではお年寄りならたいへんなことになっていますよ、とよく言っていました。
看護師さんも、マスクしてきてください。病院はもっとも細菌がうようよいる場所なんですから。
本当にたいへんな病気を抱え込むとたいへん!
とアドバイスしてくれました。
最初はマスクをして病院に入っていたのですが、病院という場所は病気で体が弱っている人々が体力を消耗しないように空調で温度が高めに設定されているのです。たぶん27、28度くらいだと思います。
なので暑いのです。マスクでむれるのです。
鼻が低いのにメガネをかけているので、曇るのです。
自分の呼気でまったくなにも見えなくなるのです。
それが嫌でやめてしまいました。
うがいを後ですればいいんじゃない?という考え、病院を出たらすぐに手を洗えばいいんじゃない?
と思っていました。
たぶん普段9000くらいもある人が1000まで落ち込んだら一大事なんです。
でもわたしは3800くらいから1000ですから四分の一なんですよね。
きっと普段から低い白血球ながら自己防衛している体なので、ことなきを得たのだと思っています。
そんなわけで抗がん剤治療の回数が重なり、先生も徐々にわたしの普段の白血球になれてきて、
最後のほうは2000くらいでも白血球をあげる薬を使わなくなりました。
もうけたもうけた、と思ったものです。

抗がん剤治療⑤膨満感



後半4クールおこなったタキソテールという抗がん剤では、脱毛より膨満感に苦しみました。

味覚がゼロになったことは前回書きましたが、そのときに腫れてしまった舌は、胃を悪くした症状のひとつでもありました。
胃の症状として出てきたのが、消化しない、ガスが異様にたまる、というももの。
ほとんど食べていないのに、おなかはガスで膨らみ、ウエストが10センチ近くも大きくなりました。

椅子に座るのもしんどい膨満感。
座っていることがつらくて自宅ではねっころがっていることが多くなりました。

でも、職場に出ているときの私はめいっぱいガンバッテいたと思います。
つらい?
と病気のことを知っている人は聞いてくれますが、いつも
全然大丈夫よ~~!と答えていました。

今にして思うと、当時の私はとてもけなげで、がんばりやさんでした。
生来が自堕落な生活にすぐに陥るのですが、よくもまあ、外では弱音を吐かなかったな、と感心します。

がんなんていうと誰でもがビビル病気。
そこに持ってきて恐怖心をあおるような態度とか顔が見せられなかった、のだと思います。
精一杯健康でしゃっきりしているところを見てもらいたかった・・・・
そんな体裁、いらなかったのかもしれませんが・・・

さて、膨満感が続き、どうしようも苦しくなったときに、妹に相談しました。
妹の夫は医師で、夫婦で医院を開いています。
医療の知識もあるので、なにかよい薬でもないかしら?と聞いてみたのです。
実をいうと、相談するまで、苦しさの原因がガスが異常にたまっているのだとは
わかりませんでした。
ただおなかが苦しい、座っていられない、痛いのではなく身動きできない感じなのだ、
などと症状を打ち明けました。
するとわたしが使っている抗がん剤の場合、胃の動きが止まり、ガスがたまって膨満感に苦しむことがあるよ、
と教えてくれました。

そして、いくつか改善する方法を紹介してくれました。
医師である妹の夫もアドバイスをいろいろくれました。

普段の健康体なら、きょうだいの病院で薬を処方もしてもらうのですが、わたしには主治医がいるので、次の診察のときに膨満感がとにかくひどいので、ガスを外に出したいのだ、と
説明することにしました。
そしてほしい薬を手に入れられるようになったのです。

この薬は本当に見事でした。
飲むと、とたんにおなかの中身が動き出す感覚が訪れます。
そしてまったく出てくれなかったガスが一気に出るのでした。
一気というより一揆、おなかの一揆というかんじ。
なにしろ最初に出たガスは、10秒以上も止まらないほどだったんです。
ぶーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(はしたない話でスミマセン)

わたしも本当にびっくりしました。
でも出てくれると本当に楽になり、普通に椅子に座れるんです。
ありがたいな、ガナトンってかんじです。

ただし、薬は飲むとほどなくして我慢しがたくガスが出るので、
職場では飲めません。
実は最初は飲んでいたのですが、職場で人前でぶーーーーっとやってしまいまして、
顔から火がでる思いをしたので、やめました。
職場では相変わらずやせがまんをし、自宅に帰ってくると即座にかつらを放り、
ガナトンなど膨満感を改善する薬を服用して、たまりにたまっていたガスを出して
ほっとする・・・・
そんな毎日でした。
家族もあきれていましたが、それでもしょうがないことと許してくれたのがありがたかったです。


私がそうだったように、抗がん剤で出てきた症状をきちんと医師に説明して、
あう薬をもらうことにも技術が必要です。
苦しいとしかわからなかったのを、ガスがたまって膨満感となり苦しいのです、と
説明しないと伝わらないから。

わたしのこの経験が誰かの改善へのヒントになるといいのですが・・・・

抗がん剤治療④味覚喪失


抗がん剤治療で二番目につらかったのは、味覚がなくなったことでした。
味覚は、最初、塩分を感じにくいというところからスタート。
徐々にひどくなり、最終的には完全になんの味もわからなくなりました。
舌が腫れて、ハリーポッターに出てくる、ウィーズリーきょうだいの双子のフレッド&ジョージが作り出した、舌が貼れる魔法のお菓子を食べたようでした。

主婦、おかあさんでもあるため、食事作りには本当に困りました。
自分が作っているものがどんな味なのかまったくわからないのです。
このときも息子がずいぶん手伝ってくれました。
つまり私の舌となり、味見してくれては薄いだの濃いだの、何の味が足らないだのと
教えてくれたのでした。

ちょっと話はそれますが、人によっては自分の乳がんのことを子供たちに伝えない人がいます。
わたしの周囲の人には何人かいます。
一方わたしは、しゃべりすぎなくらい、子供たちに何でも伝えていました。
今どんな状態か。
どこが痛いか。
病院でこう言われた。
お母さんが死んでしまうかもしれないから、こうして、ああして・・・・
反省するところも多いのですが、
一方でわたし自身がめげてしょんぼりする反面、闘志満々であかるい時も多かったので、
子供たちは乳がんという病気をかなりきちんとわかったうえで、
あまりそれを思い悩むことなく生活していたと思います。
今も、です。
息子などは知人が電話をかけてきて、
「お母さんはどう?」と心配げに尋ねたのに対して
「はい、がんの割に元気です」
と明るく答えたといいます。
知人は、よい伝え方したね、よい子に育っているねと
息子や私(?)を褒めてくれました。
自分ではよく認識していませんでしが、そう言われることはなんとなくうれしく、
よかったのかな?と思う要因になっています。
わたしの子どもたちは、私が調子がいいときには、普段とおりの
わがままもいう、片付けも手伝いもしない子たちでしたが、
調子が悪いときには、本当に献身的に、一生懸命手伝ってくれました。
これはすごい収穫でした。

さて、味覚の話に戻ります。
息子の助力でわたしは毎日ほぼ3食、ご飯作りをつづけましたが、
自分の食欲は本当になくなりました。
とにかく体を維持し、体力を落とさないために食べましたが。
ちなみに味覚はなくても空腹感はくるので、おなかはちゃんとグーとなったりしました。

今から思うととても残念なのは、子どもたちと行った夏の和歌山・三重の旅行での食事です。
おいしいものをたくさん食べたはずですが、その記憶はありません。
というか、このときにも味覚ゼロだったので、胃にいろいろ入れていたというだけで
何も味わうことができませんでした。
なので子供たちに、しょっちゅう
「どう?おいしい?」
「どんな味?」
「おいしいならたくさん食べなさいよ、お母さんの分も」
と言ってばかりいました。
そのうち、また機会があったら、あの地をまた訪ね、今度は率先していろいろ味わいたい。
私はひどく大食漢なうえ、食べることが何より好きなのですから。
リベンジはしたいものです。

味覚がなくなった時にためしたことがあります。
とんがらしとかわさび、タバスコ、ハバネロなど辛いものも味がわからないのか。
すっごい甘いものはどうなのか?
すっぱいものはどうなのか?
香りがうんと強いものはどうなのか?

お酢をそのまま飲んでも、砂糖をそのまま食べても味はわかりませんでした。
激辛のものも味はわかりませんでした。
でも舌が反応するので、ああ、この刺激かとわかります。
つまり味ではなく痛みが感じられるのです。

香りの強いものとのど越しがいいものは味がわからなくても食べてそれなりに満足できるもの、
でした。
前にも書きましたが、くさや、酒盗は一番食が進むものでした。
鼻から強い香りが入ってくるので、それをたよりにごはんが食べられました。
ただし塩分が強く、しばらくして体がずいぶんむくみました。
とまとは、のど越しが好きでした。
冷たくしたとまとは、いつも冷蔵庫にたっぷり入れてあり、
空腹を感じると、とまとだけガブリガブリと食べたものでした。

味覚障害。
きっとこれから私と同じ抗がん剤を使う人たちも
多かれ少なかれ体験すると思います。
そんなときには鼻で香りを感じられる好きな食べ物、
のど越しを気持ちよく感じられる食べ物を探すといいと思います。

味覚を回復してくれる薬はどうもないらしく、
治療中はどうしてもたえないといけないのがつらいですが、
抗がん剤をやめた途端、戻ってきますから
その日を夢見て過ごしてください。

抗がん剤治療③脱毛編


書いたら書きっぱなしにしてきたこの新ブログ。
いまさら読み直してみて、誤字脱字、表現がおかしいところ、年齢をまちがえて書いていること、などに気づきました。ものかきのはしくれなのに、はずかしいことです。
ですが、あえて直さないでおこうかな?なんて思ったり。
書きながら自分なりに動揺したり、戸惑いを思い出したりしたときに間違いが出ているようなので
めちゃくちゃな文章も、私の表現のなにかかな、と。
ちゃんと訂正しないといけないのは手術したときの年齢。
46歳ではなく44歳、もうすぐ45歳になる直前に乳がん手術を受けました。






 さてさて、抗がん剤で髪の毛がなくなることはよく知られています。
事前の説明でも先生はまっさきにそれを私に告げました。
頭の毛がぬける。
抜けかたは人それぞれで、けっこう残る人もいる。
そんな説明だったので、楽観視している自分がいました。
それと先生の言葉通りでしか理解していなかったので、抜けるのは頭の毛だけ、
みたいに思っていました。
 実際に抜けてしまう前に、頭だけではないの?とそこに気づいたのですが、
それは妹の言葉からでした。
「まつげとかまゆげも抜けるんだろうかね・・・」と何気なく言ったのです。
あっ!そうだよね~~と、不安が増大したことを覚えています。


実際には私の脱毛は人よりたいへんなものでした。
外国の競泳の選手の中にときどきいる人のように、
完全に頭はツルツル。顔もツルツル。
体もツルツル。下の毛もわきの下もツルツルになったんでした。
悪かったことは数知れず。
それは後ほど書きますが、よかったことは、ちょうど夏だったので
脱毛の必要がなかったこと(笑)でしょうか。
剃って毛がないのではなく、毛抜きとかレーザー脱毛で完全にきれいにツルツルになった感じでした。


毛の抜け方はこんなでした。
まず抗がん剤の最初の一発を体に入れて直後から、
お風呂で頭を洗うと洗ったお湯がオレンジになりました。
私の使った抗がん剤はトマトジュースみたいな赤い薬。
それが頭皮を通して外に出ているのでした。

そして1週間くらいして頭皮に痛みが出てきました。
ピンをとめていると、あるいは髪をしばっていると、ときどきとったときに痛み出ませんか?
ずっと左わけで固めていた髪の毛を右に変えたときに起こる違和感をともなった痛み。
それを何倍かに増大させたような痛みです。

そして髪の毛からどんどんツヤがなくなっていきました。
古い人形の毛のようでした。
パッサパサ。
「ああ、まだ毛はついているけれど、栄養は完全に断たれている死んだ状態なんだな」
と思いました。

痛みが出てくると、毛はどんどん抜けていきました。
ひっぱると抵抗なく抜けるのです。
ベッドや枕を毛だらけにしたくなかったので、早いうちに頭をスキカルくんで五分刈りにしました。
同時にかつらを注文し、ショートボブのようなかつらをかぶり始めました。
ひっぱると抵抗なく抜けるとはいってもさすがに髪の毛の本数は多く、
完全にきれいに抜け切ることはありませんでした。
そこで、わたしはガムテームを頭につけてベリッとやりました。
気持ちいいくらいとれたし、痛みはありませんでした。
頭髪が完全になくなるまで、毎晩、息子に手伝ってもらって、
ガムテープで髪の毛を取り除きました。
息子は、髪を抜くことが習慣化してしまい、そのうち自分の頭の毛もピチプチ抜くようになりました。
ある日、息子の頭頂あたりに500円玉くらいのハゲを見つけ、わたしは叱りました。
あとあと考えると息子なりの思いやりがそのハゲを作ったと思います。
私は叱ったことを今もすまないな、と思っています。
っていうか、ガムテームの作業を手伝わせたことが罪深いかな?と反省しています。


こうして私の頭はツルツルになっていきました。
ツルツルになってみると本当に困ったことがありました。
かつらが簡単にずれるのです。
髪があるうちにかぶる練習を人知れずしていたときにはひっかり過ぎてかぶりにくく
思ったものでした。
五分刈りにしてからはけっこうイイ感じでかぶれたのでした。
ところがツルツル頭にはとっかかりというか、かつらがひっかかる場所がないのです。
ちょこっと汗をかけばかつらはずれました。
きつめに調整してかぶると締め付けから痛くなりました。
毛のない頭は守ってくれる存在を失ったたよりない存在で、すぐにかぶれたり湿しんやおできが
できたり、荒れたりしました。
かつらは正直、本当に嫌でした。

自分が髪の毛を失ってからは薄くなっていく夫の毛のことをいっさい言わないようになりました。
今まで申し訳ない冗談を飛ばしたり、どうにもならない指摘をしてすみません!
という気持ちになったんです。
自分が同じ立場になると、ひとの苦しみ、痛みがわかる。
それを絵にかいたようなものでした。


前半4クールの抗がん剤では、頭髪と体毛の大方がなくなりましたが、
まばらにまつげとまゆげが残りました。

ところが後半に使ったタキソテールという薬では泣きました。
まつげ、眉毛、下の毛が新たに完全になくなったのです。
人の顔って眉毛まつげがないと本当に間抜けです。
私は眉毛もまつげも人より濃くて長かったので、本当に落差が大きかったです。
抗がん剤の影響でむくみもきていたので、別人の顔になりました。
必ず毎朝、化粧を時間をかけてしたのですが、
(さも病人の顔には死んでもなりたくなったので)
眉毛をかき、まつげの場所にアイラインを引いていくのに、もっとも時間をかけました。

そのアイラインには本当に高度な技術が必要となりました。
むくんだ目の周辺の肉が、外にこぼれてくるような様子の中で、
どこが眼ブチか、そこから決めないといけないのです。
まつげがあった内側、眼球近直に思い切りよくひかないといけません。
でも必死でわたしはその技術を身につけました。
今もそのとき身につけた技術はいき、今、化粧には自信があるのでした
(エヘン)

下の毛というのも下世話な話ですが、大切だと思い知りました。
一本もないというのは温泉などにはいるとき、頭髪がないよりはずかしく思いました。
大人なのに・・・・っていうはずかしさです。

まつげとか鼻毛が一本もないのも、知らなかった大変の原因でした。
勝手に涙が流れる。
勝手に鼻水が流れるのです。
液体をとどめておく毛が一本もないのですから。
鼻の中が乾燥しすぎて鼻血がでることもありました。
一生懸命にひいたアイラインが流れる涙にのってゆがみ、
パンダのようになりました。
相当ウォータープルーフ効果の強い製品を使いましたが、
それでも、です。

アメリカに住んでいる友人がいて、彼女の周辺にはお母さんはじめ、親友、義理の妹など
乳がんの人が多いのですが、その彼女が言っていました。
アメリカの女性はおっぱいが片方なくても平気でジムのロッカーで上半身裸になって着替えるし、
隠さない人がほとんど。
でもみんな髪の毛や体毛がなくなることが何より悩みなのよね、と。

その言葉の意味がしみじみ理解できました。


頭におできなどができやすいと書きました。
夏だったこともあり、あせもが特に深刻でした。
夜、お風呂のあとにたんねんに塗り薬をぬっていたわりますが、
ぐちゃぐちゃになったこともありました。
仕事が接客に近いこともやっていたので、帽子はダメというのが鉄則でした。
ですが、あまりにおできが痛くなり、かつらでは耐えられなくて上司に
明日だけでいいから黒の帽子で対処させてください、と頼み、飲んでもらったことがありました。

仕事が終わり、あるいは外出を終えて帰宅すると玄関を入ったとたんに、
アメリカの海軍士官学校の卒業式のように、かぶっていたかつらを高く放り投げる。
これが抗がん剤治療中のわたしの日課でした。

思い出せばなつかしい、ですが、
あんなガンバリができた自分が少し前にいたことを、本当にえらいぞ!と思います。
今のわたしはまたヘタレに戻っていますから。
もう経験したくない・・・・



画像は熊野の三大社のお札(?)です。
抗がん剤治療の途中で子供たちと行った旅行で回りました。
なにか強い力にすがりたい次期だったので、神殿を前にして
えもいわれぬ感動を受けたものでした。
とてもつなかしいです。