2009年2月23日月曜日

抗がん剤治療②わたしを襲った副作用

抗がん剤治療をはじめる前に一番心配だったのは、ひどい吐き気、でした。

母の肺がん治療を見ていて、それがなによりつらそうで、見ているだにかわいそうで、これでガンがなくならないこともあるのであって、そんなとき、どうなぐさめたらいいのだろう、と繰り返し思ったものでした。

 その母を見ている私の視線が、そのまま家族の視線になるのかな、と思いました。

でも肺がんより副作用が少ない、と言われたのです。それを信じるしかありません。



 実際に始めてみると、副作用は回を重ねるほどひどくなる、と書きました。

ひどくなるのは、この吐き気が筆頭でした。

 吐き気は基本的には妊娠・つわりを経験した人ならちょっとなじみのあるものです。

 まさにつわり、でした。

わたしだけ?と思ったので、何人かの人に聞きました。すると、そうだ!つわりだね!これつわりだ!

という声が聞かれました。

 女性の象徴である乳房をやられて、その治療でつわりを経験する。なんだか複雑な気持ちです。



 回を増すごとにつわりはひどくなっていきました。点滴の途中からすでに吐き気がきて、このはきそうでむかむかする感じがまだ2時間も3時間も続くのだ、と思いました。点滴中は体にハリが刺さっているので、トイレにはきにいったりできません。看護師さんはここにはいていいよとシャーレみたいなものをしめしてくれましたが、ズラリと横に並んで何人もの人が抗がん剤を打っているところでなんとなく吐くのはいやでした。涙目になりながら、口元をおさえて我慢しました。



 点滴が終わったからといって、吐き気はおさまりません。

むしろ自宅に帰ってからが勝負です。

 人がいるところでは気をはっているし、迷惑をかけたくない一心でがんばれるのですが、自宅の玄関を入ったとたん、緊張の糸は切れ、超わがままで自分本位なわたしが出てくるのです。

 気分のよいときには今のうちに家族にしてあげられることはしてあげよう、とか、家族と楽しく暮らすことを第一に考えよう、などとやさしいわたしでいられるのですが、毎回、抗がん剤後1週間ほどは、自宅内ではいやな人、だったと思います。



 わたしはこの抗がん剤を受けながら、実は夏休み、子供ふたりを車に乗せて、2000キロもの運転をこなしながら和歌山、三重を旅しました。

 夫は直前まで行く予定でしたが、仕事が入ってしまい、わたしが運転するしかなくなったのです。

中止ということは考えませんでした。

 できるうちに子供たちと旅行に行きたかったのです。

 いつか具合がよくなったらとか、いつか病気がなおったら、などと言っていては、いろんなことができずじまいになりそうに思えました。



 不思議なことに吐き気と味覚ゼロと体のむくみと全身完全脱毛の状態でしたが、倒れることなく旅をやりとおしました。

 おいしいお料理のはずですが、食べ物は何をたべても味覚ゼロでしたが、旅の途中、子供たちをちゃんと楽しませてうちに無事に連れかえるという使命感が緊張感となって、また見て歩いた場所がとても素晴らしく気分が変わったこともあり、夜以外はひどい吐き気から解放されました。



そこで気づいたのです。

つわりは、なにかに夢中になっていると軽減されるようです。

というか忘れていられるようです。



ためしに旅から帰ってきてからも、吐き気のひどい時には積極的に友達に会ったり、仕事を休まず一生懸命体を動かしたり、日記を書いたりと、してみました。するとやはり、少しいいのです。

つらいから寝ている。これが一番わたしを落ち込ませ、実際に体調も悪くするようでした。





味覚がないので、なにを食べても味はわからないのですが、食べるととくに気持ち悪くなるものはありました。

たとえば焼き魚、です。

またワカメや昆布やもずくもなんとなく吐き気を誘いました。

これらは本来わたしの大好きです。

でも子供たちを妊娠していたつわりのときも、確かダメだったなぁ、と思い出しました。

やっぱり抗がん剤のつわりは、妊娠のつわりによく似ています。

そう思うと、男性が気の毒でした。

入院中も、退院して抗がん剤治療に通っているときにも、男性は苦しそうでした。

経験のない吐き気と闘っているのだと思います。

その苦しさ、気持ち悪さ、それが女性のつわりなのですよ、なんて軽口を叩ける雰囲気はなくだまっていましたが、そう誰かにいってみたいな、とよく思いました。



つわり経験者ならわかると思いますが、普段食べているものがダメになるかわり、特定のおかしなものが大好きになったりもします。

わたしは最初のコのつわりのときには大好きだったサンマがダメになり、お正月の昆布巻きがダメになり、そのかわりいつもいつも果物のビワが食べたくなるのでした。

二番目のコのときには、妊娠中ずっとつわりで、完全に産んでしまうまで、分娩台の上でも気持ち悪かったのですが、チョコレートを食べている最中だけは大丈夫でした。

そのためチョコレートの食べ過ぎで便秘はするわ、極度に太るわ。

妊娠中毒症が出て、医師にチョコ禁止、体重落とせと言われました。

三度目のつわり、抗がん剤では、

トマト、カツオの酒とう、くさやが常に食べたかったものです。

冷蔵庫にはトマトが常に十個以上並んでいました。妹などに頼んでくさやを買ってきてもらいました。カツオの酒とうはきらすことができず、ビンの中身が半分を切ると、即座に買いに行きました。



がん友達に話すと、彼女もトマト依存症のようにトマトが食べたいと言っていました。

ほかに漬物に嗜好が偏っていったそうです。



つらい治療でしたが、今思うと、おかしい状態の自分がおかしいことを日々やっていたりして、笑えます。



画像は我が家のイチゴです。
花が咲きました。
くだものの花がさき、実にあるのを見ているのは気分がいいですね。
わたしは動物育てが上手で、そこに才能があるのですが、植物はダメ。
これは息子が育てています。そんな、自分とは適性が違う子供たちを見ているのは
もっと楽しいです。
まだまだもっと先まで見ていたな、と思います。

2009年2月21日土曜日

抗がん剤治療①副作用はだんだんひどくなる



わたしが抗がん剤治療をしたのは、2006年の5月19日から

11月2日まで、でした。

前半は、ファルモルビシンと、5-FUと、エンドキサンで、4週間ごとに点滴をうけてに病院に通いました。

後半はタキソテール100mgです。こちらも4週間に一度ずつ、計4回の点滴でした。


わたしの母は肺がんで他界したのですが、治療に放射線、抗がん剤などが使われ、苦しんでいる様子をずっと見ていました。
そのせいか、あの我慢つよい母が耐えられない様子だったのに、どうしてわたしが耐えられるんだろう・・・と思ったものでした。

しかし医師や、友人は乳がんの抗がん剤は肺がんのものよりずっと楽なのだ、というのです。


入院中に大腸癌手術で入院していた人ととっても親しくなり、一緒に抗がん剤治療を受けられることになったので、励ましあいながら一緒に通ってやるか!と思いました。
それほど苦しくないなら、受けておいたほうがいいな、と思ったのでした。
抗がん剤を始めると伝えると親しい友人たちがとても心配してくれました。
1回目の抗がん剤のあとに何人かはメールをくれてこちらの様子を聞いてくれました。
本当に楽で、たいした副作用がないように思ったので、投与直後のメールはイケイケで、友人たちはとても安心しました。
ところが!
友人たちとのやりとりの後にあれこれ出てきたのです、副作用とか、体への反応が。
またなによりいやだったのは、1回目より2回目、2回目より3回目と抗がん剤治療が進むにつれて副作用がひどくなっていくことでした。
今わたしは、友人たちが
「乳がんの友達が抗がん剤治療を受けるの」と言うと、必ずこう言います。
1回目はけっこう楽だから大丈夫だよ~~~というと思うけれど、だんだん副作用がつらくなってくるから1回目のお見舞いメールや電話でやめないで、1か月1度ずつでも話を聞いてあげるといいよ。
話をしている間とか何か楽しめることをやっている間は副作用の吐き気が緩和したり、体調が楽になったりするんだからね!と

2009年2月20日金曜日

1年かけて浮腫の心配から解放されました


 左の脇の下のリンパ節ににゅうがんの転移があったため、そのリンパ節を摘出したのですが、
そうすることで、リンパ液の関所、関門である部分を失い、左うでにケガや、やけどや、なにか炎症
を起こすと、浮腫を起こすという危険性を持つことになりました。

その説明は手術後すぐに始まったリハビリの時間にされました。
リハビリの先生が注意してね、とアドバイスしてくれたのは、

ひりひりするほど日焼けしない
左腕や指さきに切り傷など作らないようにする
リュックや重いショルダーバッグを左肩にかけない
夏場たくさんの蚊にさされないようにする
左に注射、鍼治療、血圧測定をしない
あまり重い荷物を左でもたない
筋肉痛になるほど左ほどを使わない
左指には指輪をつけない、左腕には時計をはめない

などなどでした。
浮腫というのがどういうものかいくら説明を受けてもピンとこず、もやもやした不安でいっぱいになったものでした。だいたい浮腫はその禁止事項をした時には必ずくるのか。
私はこれから一生、今まで普通にやっていたことができないのか。
浮腫は治らないのか。
そんなことを考えては溜息がでるのでした。

少しずつ先生がたに質問していくと、浮腫は起こる人と起こらない人がいるとわかりました。
軽度の浮腫であれば、マッサージしたりや用具を使っての治療で治るけれど、腕が倍にも腫れてしまったときには元通りには戻らないとわかりました。
やむなく包丁で指を切ってしまったり、ケガしたときにはよく消毒して、なかにバイキンを入れないように注意することが大切であることも知りました。
マッサージの仕方は毎日復習することで、退院後も自分できちんとできるようにマスターしました。


退院後、しばらくはなんだか自分が無力で、なにもできない人間のように思い、落ち込むことも多かったです。だってだれよりも力持ちで、重い荷物なんか全部自分で持っていたのに、それを人に頼まないといけないのです。
毎年なんら気遣いなく日焼けのし放題だったのに、長そでをきたり、うでカバーをしたりして、左腕を日焼けから守らないといけないのです。
調理は短い時間でたくさん作るのが得意だったのに、指を切らないように慎重にゆっくり作業しないといけません。
愛用していたデイパックや大きなショダーバッグをやめて、ウエストバッグを購入。いつでも腕が空いているようにする生活がスタートしたのです。

いちいちが不便。
いちいちの動作に時間がかかるように思えました。

でも2か月、3か月たつうちに、そんなに神経質になるのはよそうと思うように変わりました。
まず、東京郊外の蚊がぶんぶん飛び回る地域で生活していて、蚊に刺されないなんて無理です。
根っからおちょこちょいでけがが多いので、けがを100パーセントしないなんて無理です。
家事、仕事のさまざまな場面で、どうしたって自分で重いものを運ばないといけない場面があるものです。

実際に何度も包丁で指先を切ったのですが、消毒をきちんとやり、ゴム手袋をつけて料理をするなどのケガ後のフォローで、少しだけむくむ程度で済んだりしたことが、自信につながりました。
蚊にもさっそく刺され、多少左腕が右より太くなりましたが、マッサージで解消したことが、楽観的に考える要因になりました。

わたしはとにかく丸1年、予防策はなるべくしながら、普通に生活しようと思いました。
春夏秋冬を過ごすことで、どんな程度のケガなら大丈夫で、このくらいの日焼けはヤバイなどなど
体得できるだろうと思ったのです。
まずは1年おとなしくしていて、無事に1年が過ぎたらほとんど手術前の生活に戻しても大丈夫なんではないかと思いました。

そして、予想どおり、多少の腫れは何度か経験しながら無事1年をクリアしました。
いまあと少しで術後3年になろうとしていますが、左腕は無事です。
今わたしの左手指には2枚のバンドエイドが貼られ、左腕には時計がはめられていますが、
大丈夫です。
リンパ節切除で胸、上腕、背中の一部にマヒがあり、感覚がありません。
蚊に血を吸われているとき、人はそれに気づきますが、私にはそれがわかりません。
自分の一部がマヒしているということを頭に入れて、日々生活していますが、それほど用心深くはしていないので、浮腫が起きにくいところを本当に感謝しています。

2009年2月19日木曜日

浮腫に気をつけて!って言われたけれど・・・



リンパ節も取り除く手術を受けたので、私はリハビリのときから

「左の腕を筋肉痛がくるほど使ったり、カバンを左腕にかけたり特に重いものを持ったり、鍼灸治療を受けたり、けがしたりしないように気を付けてくださいね。リンパ節というのは体の関所的な役割をします。リンパ節がない人はケガなどで体にできる異物をコしてくれるフィルターがないようなものなので、腕に浮腫が出るなどする人がいるんです。軽い浮腫のばあいには、マッサージや用具を使った処置ができますが、倍にも膨れてしまったときには元通りにもどすことができないので注意が必要なんです」

と作業療法の先生に言われていました。

左腕は蚊にたくさん刺されたり、指先のササクレでも浮腫を起こす人がいるそうです。肌があれる次期にはゴム手袋をしてあれないように注意してください。 包丁で手を切らないようにしてください。リュックや左の肩から思いショルダーバッグをかけることもやめてください、などなど注意は多岐におよびました。

浮腫がどんなものかまったく知らない状態で日々いろいろ言われたので、わたしはだんだんと不安が大きくなっていきました。

注意散漫で手を切ることなんか年がら年じゅうです。うちに帰ればまだ子猫状態の、しかも甘えては噛んだりひっかいたりする猫がいます。犬も子犬のときにもと飼い主に虐待を受けてとっさに人をかむことがありました。

わたしは自分のうちに帰って生活できるんだろうか・・・・・・・・

考えるほどに心配ごとが増えていきました。

うんとひどい浮腫の場合には、元通りの腕の太さに戻らない、というのも不安材料です。

とはいえ、腹をくくって生きているしかないわけで、とりあえずできる注意からしていくか、と思うよりしょうがなかったのでした。


わたしがさっそくやった注意は、まずお気に入りのリュック型のバッグを使わないことでした。

料理は得意で早いのですが、よく手を切るので、おそくてもいい、ゆっくり正確に切ろうと心しました。

東京の郊外で蚊なんてわんわんいる地域に住まいがあるので、虫よけスピレーや虫よけのパッチ、長そでを切るなど気をつけました。長そではひどく日焼けするのもいけないと言われていたので、その日焼け対策にもよかったです。

爪をかんだり、荒れてささくれだった指先の皮をすぐにぴっとひっぱってとってしまい、炎症させることが多かったので、もう指先は絶対に触らない!みたいに決心しました。

重い荷物は夫や子供たち、ひとに頼んで持ってもらうようにしました。

バッグはウエストで止められる大きなサイズのものを購入しました。


主婦で子育てをしている途中の女性は髪ふりみだして日々家事をこなしたり、生活労働をしているもの。人に頼まないと重い荷物がもてないとか、暑い夏に日焼けもダメ、蚊もダメ、家事での小さなけがモダメというのはすごいストレスです。

いちいち考えていては、仕事に時間がかかるし、いままで誰よりもちゃっちゃと動いていたのが、できないのですから。

食事やお弁当を作り始める時間を前より早くしたり、時間にうんと余裕をもって動かないといけないこと自体がストレスでした。



でも3,4か月たったころでしょうか。

浮腫は起こす人と起こしにくい人がいて、起こしにくい人はけっこういろんなけがをしたりしても大丈夫みたいだ、と同じ病気の人に聞いて知りました。

わたしはどっちのタイプ?というのが気になるところでした。

そこでまずは1年間、慎重に生活しよう、と考えました。

1年間というのは、春夏秋冬あり、年間の行事も経験でき、月々に変わる仕事の流れもわかります。

で、1年たってこれは私にはよくない。これをやると少しむくむ。これは大丈夫。

などなどわかったら、もうあまり医師や作業療法士さんがいっていたような細かい注意は横に置こうと思いました。

日々の生活に過度の用心深さは邪魔ですから。


まず1年かけて自分の生活サイクルにそって自分を観察する。

われながらいい手だったなと思います。


今わたしは蚊にたくさん刺されるとちょっとむくみます。

包丁でざっくり切るなど大きいけがをするとむくみます。

しかし、けがした場所をていねいに消毒し、マッサージを頻繁にすることで解消できることも知りました。

重い荷物はずっとでなければ大丈夫みたいです。

日焼けもある程度なら大丈夫。


時間をかけて自分を知ることで自分のおっちょこちょいぶりが改めて分かったり、

こういうときに自分はけがする、などステレオタイプがわかり、メリットもありました。



2009年2月16日月曜日

にゅんがん手術後のリハビリで腕を動かす練習をする


 乳がんの手術が終わった翌日からリハビリが始まりました。
早い時期から腕をあげたり回したりするリハビリをしないと、家事すらできないように固まってしまうから、なのだそうです。
 病院での目標は退院までにちゃんと左腕が真上まであがり動かせるようになること。
これがね、けっこうたいへんでした。
1日1回、リハビリ室でメニューをこなしながら練習するほかに、病室で自分で最低日に2回は決められた運動をしながら回復させようとしたのでした。
 なにがたいへんって、痛いのです。
 自分の腕とは思えないくらい腕は上がらず、上げようとするとすっごく痛いのです。
どんな痛さか・・・・そう、プロレス技で体を固められたときみたいなかんじ。曲がらないはずの関節を曲げられているかんじ、です。
 
わたしの病院はどちらかというとスパルタ方式でした。
リハビリの先生はとても優しく、気持ちのよいマッサージを入れながらやさしく教えてくれるのですが、看護師さんたちが熱血で、患者さん思いで、早く患者さんが自分で動かせるようにと、病室にきてはすっごい痛いマッサージをして帰ったり、いきなり腕を上にあげられたり・・・・
そのときは恨みました。
自分でもやってんだよ!
やっていても少し時間がたつとまた硬くなってあがらないんだよ。
どうしてそう無理にいろいろやるんだよ!!
っとぷんぷんでした。
ですが、退院するときにはほとんど自分で動かせるようになっていて、仕事復帰も早かったことを考えると、感謝しています、今は。
実は職場の人が、友人がね乳がんで入院して退院したの・・・と話してくれました。
その友人さんの病院ではスパルタリハビリはなく、っていうかほとんどリハビリの時間はなかったようです。彼女は退院してすでに2か月たつのにまったく腕が上がらない、と困っているそうなのです。
そうか、看護師さんたちを鬼!っとかって陰で言っていたけれど、
わたしのためにはとてもよい対処方法だったんだね、と思うようになりました。
それでも退院してからも毎日ちゃんと体操をしないと動かなくなります。
乳房と脇の下リンパ節をとったせいで、体の筋肉と骨のバランスがくずれ、胸と腕と背中の筋肉がうまく連動しない、という感じです。
でも、みんなが不安に思うこのリハビリと回復へのおそい歩みですが、必ず自分から動かすようにしていると、動くようになります。
私も入院中は、本当に動くようになるんだろうか、こんなに痛いのに、とか
ちょっと10分も動かさないと動かなくなるなんて、気持ちがおちこむなぁ・・・・
と、毎日不安でした。
でも今はちゃんと家事も普通にできるし、庭樹を切ったり、年末の大掃除をしたり、
力仕事だってバンザイ!だって、腕を振り回してのダンスだってできます。
人間は強い。
人間の生命力やリカバリー力はすごいです。
今不安の渦中にいる人は、絶対に今のこの状態がずっと続くわけではない!と
信じてくださいね。

2009年2月14日土曜日

いろいろ考えて全摘出にしました



 


 女性なら乳房を失うことはかなりのショックだし、リスクを背負っても温存を望みたい、と思うものかもしれません。


 私はちょっと普通の感覚に乏しいのかもしれない。


 


 乳がんの大きさは1.2センチ×1.2センチという小さいものでした。


先生は、小さいので温存ができますよ、と言ってくれました。


 にもかかわらず、私はほうぼうに相談したり、ネットで調べたりして全摘出でお願いします、と言いました。


先生は、手術直前まで考えていいからね、と何度もいいました。


ですが私の気持ちは温存をなぜか否定しました。






最初にそう結論づけたのは、直観からくるなにか、でした。


いとこが乳がんをやっていて、その時の先生が温存にしたくてしたくてしょうがないとかで、


いとこは温存しました。そして再発。結局2度目の手術で全摘出しました。


わたしはそのことが気になっていました。


そのせいもあるのでしょうが、きっと温存したらまた出てくるに違いないと思ってしまったのです。




私の母は肺がんで死んでいます。


ものすごい勢いでがんは大きくなり、そして病気がわかって半年で死にました。


その母をずっと見ていて、がんが私に出たときには、同じように勢いがあるタイプになるな、と


これまた直観で思いました。もっとも母子でとても体質とかもろもろ似ているもので、そう思ったのかもしれません。




直観なんて思いすごし、と思われるかもしれませんが、私はなぜか直観が否定できません。


理由はないのですが、すごくきっぱりと、断固としてそうに違いないと思ってしまうのです。


なので同じ理由でどうしても乳房再建ができません。


ヘタレで手術が嫌というのもありますが、これまた直観で再建したらまた出てくるような気がする・・・・のです。






手術をしてみたら、わたしのがんはそんなに小さいのに、脇の下のリンパ節にりっぱに転移していました。3つありました。


後々聞いたところでは、温存してくださいと私がいったとしても、結果として温存できない状況だったそうです。奇しくも直観が当たったといえるかもしれないですね。






手術前、きょうだいの夫が医者をしていまして、その彼にマンモやレントゲンの画像を見せて相談しました。


なんとなく温存より全摘出がいいように思ってしまうのだと率直に告げ、温存のメリットとデメリットが知りたいと伝えました。


一番のメリットは本人の気持ちだ、と。女性なら乳房を失うことはつらいでしょうからそれをしないでいいというのが一番のメリットだよ、と。またこれから子供を産みたい人、まだ若い人なら失うことが相当ショックでしょうから、そのショックを軽減できれば1番いいでしょう、と。


デメリットは、データ上は温存も全摘出も再発の危険度にそれほど違いはないけれど、医師として


温存の場合より全摘出のほうが、これで取りきったからまず大丈夫だよとしっかり言えること、かな?と。もちろん乳房というのはふたつあって、ひとつの人間の同じ特質をもったふたつの乳房なので、ほかに転移するよりもう片方の乳房にまた見つかる確率のほうが高いそうですが、もしもふたたび出てくることをそれほど気にしているなら全摘出もいいかもしれないね、と。


私は19歳と12歳の子供をすでに産み、育てるほうもほぼ終わりに近くなってきています。


もうおっぱいの必要はないし、実はすっごいペチャパイで、失ってしまっても、形よく大きな人ほどの喪失感はないように思っていました。




そんなことからやっぱり温存はしない!って思ったのです。
その自分のだした結論に不満はないのですが。。。。ノーテンキな私でも乳房が片方しかないことはそれなりのストレスを運んできました。
またとても不便を感じてもいます。
そのあたりはおいおい・・・・・




2009年2月13日金曜日

 にゅうがんはほとんどの場合、女性の病気です。

でもなかなか女性の間で情報が回りません。

手術で乳房を失ったり、治療で生理がとまったり、いろいろ女性としての機能に制限がくわわるので、人にうちあけにくい、のが原因だと思います。

かくいう私も情報がなくて本当に困りました。

どんな病気なのか、治療の方法にはどんなのがあるのか。

そういったことはいくらでも本を見ればわかるのですが、些細でたわいない疑問、みんなはどうしているの?という不安がぬぐえないのです。

体験者さん教えて!とネットを徘徊して見て回りましたが、それでも私の知りたいを満足させてくれるサイトがなかなかないのですよ。

 で、私がやってみるか、と思いました。

私は46歳の春ににゅうがん手術を受けて、左乳房を全摘出しました。

にゅうがんは小さかったのに脇の下のリンパ節に転移があったので、手術から体が回復すると、
抗がん剤治療を約8か月つづけました。

今はホルモン療法を受けています。

 放射線治療は未経験なのでわかりません。

抗がん剤についても使用したもの以外はわかりません。

それでも何かお役に立てるのではないかと思うのです。

少しずつ少しずつ書き足していきます。