2009年10月12日月曜日

マンモ月間ですね


街のあっちこっちで女性たちに向け、マンモグラフィー受診を呼びかけていますね。けっこう痛いという評判とか、しごとに家事に子育てにと忙しい女性たちの都合がなかなかつかなくて、受診に踏み切れる人は少ないようにも思えます。
でも、失ってからだと、もう返ってこないんですよね、おっぱい。
わたしは自分がおかしいくらいにクールな人間だとおもっていました。
全摘出手術をしたのに、あまりこたえていないのは、どこかに感覚的欠陥でもあるからか?なんて思っていました。
でも最近、ああ、やっぱないとつらいなと感じることが増えてきたように思います。
大好きな温泉入浴でひけめを感じるとき。
好きなデザインの服が着られないとき。
スイミングによく通っていたのですが、その機会がまったくなくなったことに気づいたとき。
シリコン製のパットでひどくかぶれるとき。
片方の肩がびっくりするくらいあげってしまっているとき。
女性はいくつになっても身ぎれいにしたいなとか、
かわいらしいカッコウがしたいな、美しい姿になりたいなと思うものですよね。
そう頭に浮かぶ次の瞬間に、自分なんて・・・・という半分あきらめの意識が出てくるとき、
ああわたしも人並みに気にしているのだなと感じます。
そんなわたしですら、こうなのですから、女性的な人たちの苦痛はいかばかりでしょう。
やっぱり面倒くさくてもちょっと痛くても、マンモ、受けてほしいですね。
っとそんな気持ちをこめて、今月はわたしも毎日ピンクリボンのブローチをつけるようにしています。

2009年9月5日土曜日

がんだからと仕事を失うの、悲しいね


 先日は実に気持ちがマイナーモードでした。
ちょっと反省。でも仕方ないのだ、人間だからと思う部分もあり、です。


 実は新しい仕事が始まるのを前にナーバスになっていたのも、気持ちがよい方向に行かないことの原因でした。
 なにをそんなこと心配しているの!と友人たちには言われたのですが、
 試験や面接を受け、きちんと採用に決定しましたと言われたのに、ずっと不安でした。
 採用から仕事初めまでが2か月と長く、くわえて契約書を交わしていない状態が続いたことで、わたしは、口で合格といわれても、そのうちやっぱり不採用ですと言われやしないか、都合が変わったので採用を取り消します、みたいに言われるのではないかと思っていのです。
 夢にまで見てしまいました。

 その不安からようやく解放され、ここ数日、気分も開放的なら胸の痛みもありません。
 つくづく人間は精神の動物です。


 しかしいろいろ考えました。
今回どうしてわたしはこんなにも不安だったのだろうか、と。
 そしてわかりました。

乳がんになり、復帰してすぐに仕事に復帰しようとしたとき、友人だった編集者に言われた
~きちんと完治してからでないと心配。
 治ったら仕事一緒にしよう、~
みたいに言われたショックがトラウマとなって、本来ノーテンキなわたしでさえ、苦しんでいるのではないか、とわかったのです。

 この病気になってから、新聞を読んでいても「がん」という言葉に敏感になっています。
それはビクビクしているから、というのではなく、自分の病気にかかわる情報は多く持っていたほうがいいに決まっている、という気持ちからです。

 ドクターが解説するがん知識、自分の治療体験をつづった読者の文章、
新しい治療法、注目の治療法などの記事をよく読むようになりました。
 そんななかで、一番ショックだったのは、毎日新聞に掲載された、がんで職を失ったり、
閑職に追いやられたりした人たちの苦悩の告白でした。
 この道一筋で仕事をしてきた腕のよい職人さん。
 女性ながら頑張って部長までのぼり、バリバリ仕事をこなしてきた人。
 仕事人間で飛ばし続けてきた男性。
 専門の知識や技術をもって企業から有望視されていた人・・・・

 こういう人々が、がんによってくび宣告をされたり、
戦力外通告を受けているのです。
 病気になったことでできなくなることは確かにあるでしょう。
 手術や薬の後遺症でマヒが出れば、仕事のスピードは落ちるかもしれないし、
抗がん剤治療の最中の苦しさは尋常ではないことも多いので、やむなく仕事を早退したり
休む日があるかもしれません。
 でも、この、新聞に出ていた人たちは自分なりの全力で病気後も仕事をするつもりなのです。
 それを奪われることはどれほどつらいだろう。

 わたしは自分の経験とも重なって、胸が押しつぶされる思いでした。

 がん年齢は30代まで下がってきています。
 新しく自分のうちを持ったり、子供ができて教育にお金がかかったり、
 将来設計のために貯蓄が必要であったりするのに、その経済的な道もとざされてしまうのです。

がんの恐さは病気で命を失うこわさより、こうした社会からのはねのけられる感なのではないか、
とさえ思います。

 上司の人たちだって、明日は我が身なのにさ。
 大切なのは技をもった人間なんで、多少のハンデくらいなにさ!
 もんもんとしてしまいます。

 わたしの不安も、がんであることを告げたときに人はどう思うのか。
 自分はもう相手を満足させる仕事ができない人間なんだろうか。というところから出ています。


 同じ病気のみなさん!
 がんばろうね。
 人に先んじてがんになったけれど、みんなだっていつかはここに来るのさ!くらいの
余裕の気持ちでいたいですよね!

 聞かれていないから今回の採用に際しては乳がんのことを言っていません。
 聞かれたら正直には話すでしょうが、その話すときまでにわたしがいかに
動けて働ける人間であるかしっかり見ておいてほしいものだ、と思っています。
 

2009年8月31日月曜日

思うほどつらくなく、思うほど平気じゃない


このところ、左胸が痛くてちょっとやになっています。
とはいっても、ホルモン療法を続けつつ、定期的な検査もしっかり行っているので、たとえば再発とか、ほかの病気と関係があるとかいうのではないと思うのです。
たぶん、左は乳房だけでなく、わきの下をえぐられているので、神経にも傷がつき、それと関係しているのだと思うのです。
ただ、思わず胸を手で抑えてしまうような痛さ、ときにチクチクした感じ、あるいはろっ骨イテ!みたいな状態になります。
だからといって、それを解消する方法はないのだろうと思います。慣れていくしかないのだと思います。
わたしは人から見ても自分から見てもノーテンキで、無駄に明るいかんじの人間です。
弱っているのは似合わないし、弱ったそぶりも見せたくないと思っています。
しかしときどき、意味もなくイライラします。ユーウツになったりします。
この、胸の痛みがきたときとか、左腕にかるいむくみとだるさが出たときとか、
左腕に大量に蚊がむらがり、刺されまくっても感じず、そのくせ、あとで肉とか骨の中がむやみにかゆいような感覚に襲われるときに、そうなります。
左腕の肩からひじあたりまではマヒしているため、蚊に刺されている途中で気づくことができません。
そのため、やたら左腕だけボコボコになっていることがあるんですね。
そのイライラを人に理解してほしいとは思わないのですが、ちょうどイライラしているときに、
あなたはそんなに元気だもん、絶対もう大丈夫ね、とか
あなたの病気はたいしたことないんでしょ?
もう今はすっかりよいんでしょ?
と言われると、なんとはなしに面白くないような心もちになります。
要するにわたしはある種のわがまま病です。
あまりいたわられるのは嫌。
そのくせあんまりケロッとしている、元気だね、と言われると、そんなわけないじゃん!!
と文句の
ひとつもいいたくなり、心の中でぶつぶつ言うんですから。
自分の気持ちをときどき持て余しながら、おっかしいな、わたしと思うのです。
だって、この病気と共存していこうと決意したときに、
いつなくなくなるかわからない命だから、ぐちをいうより自分にできる仕事をして、
家族のためにできるだけのことをして、
会いたい人に会って、人に求められていることをしようと決めたのに、
その基本がぐらぐらするんですから。
人が思うほどつらい状況ではないのですが、心の問題がこれでけっこう襲ってきて、
親しい人たちが思うほど平気でもないわたしなのでした。

2009年8月23日日曜日

自分の本を作ろうとして失敗し、ある先生の本のライターをやることになりました。

わたしは、ライター(文章書き)を本職としています。
実際には、この本職より図書館のお仕事がメインのようになっているのですが・・・でも、自分の基本は文章書きだと思っています。
そんなわたしは、このブログを始める前に、同じ乳がんの女性たちの力になれないかと思い、
乳がん本を出すべく、出版社30社ほどに企画書を送り、編集者に話を聞いてもらおうと、
動きました。
実際には、外からの企画はいっさい受け付けません、という出版社が半分。
この不景気なご時世で、うちの社ではこれこれの本しか出しません、ときっぱりことわられること多々。
実際に編集者と会えることはなく、3社、電話でいろいろ話を聞いてくれるも、最終的には
売れないですね~と言われ、でした。
本でなくても、要するに情報が必要!という人の役に立てればいいわけだと気づき、この
明るい乳がん生活を始めたわけです。
さて、そんなわたしのもとに今年6月だったかな、友人の編集者から電話がありました。
ある先生が自由診療で、がんはじめ難病の患者さんの治療をしているんだけれど、
その先生が、『がん再発予防の本』を出したいと動いているのだ、ということでした。
がんにならない体を作る、的な予防の本はたくさんあります。
特定のがんの解説書的な本も山とあります。
有名無名、患者さんの体験談本というのもよく目にします。
あるいはこれを飲めばがんは治る!的なちょっとあやしい本もありますよね。
しかし、すでにがんを患っている人に対してのがん再発予防の本は
まだ見たことがない!
っで、それ面白い!!と答えたのです。
友人の編集者は、がん本なら実際にがんなあんたがいいだろう!とふってくれたのでした。
ありがたや~~
で、大丈夫?あんた、仕事できる?体大丈夫?とさんざん心配してもらい、
元気元気!! がん本書きたいと思うも企画がとおらず、意気消沈していたのよ~~
そして数日後、医師のところに編集者と出向き、話を聞いたのでした。
その本は現在進行形。
最終的なページ数やら台割やらが決まり走り出すはまだ少し先ですが、
着々と取材を執り行い、先生には原稿のもととなる項目出しと解説を
書き出してもらい、準備中、というかんじです。
かなり難しいがんの患者さんも、とても元気に再発することなく暮らしている、といういことで
本になるときを、私自身とても楽しみにしています。
読んでもらいたいがん友達もたくさんいますしね。

2009年5月22日金曜日

ホルモン療法の後遺症


現在わたしはホルモン療法継続中です。
4週間に一度ずつおなかにゾラデックスの注射を打ち、
毎日1回アリミデックスという女性ホルモンを抑える薬を飲んでいます。
ホルモン療法の困ったところは女性ホルモンを阻害するため、更年期症状があれこれ出ることです。 
くわえて、妙な食欲が出て太ってくる人が多いことです。
私もこのところ急激にふとってきました。
でも、と思います。
食べる量が少なく、運動量が多ければ太りは防げるはず。
結局自分に負けているんだな、とわかっているのです。
更年期症状でひどいのは関痛でした。
最初に治療を始めたときには朝起きて動けるようになるまで
30、40分もかかり、治療を挫折しました。
手足の指の関節すべて、股関節からヒザから足首から腰関節から痛いのです。
手足は腫れたようになり、曲がらないのです。
それを毎朝、少しずつまげてならしてゆくのです。
なんかそこに関節があったとは思えない、まっすぐな体の部位を無理やりまげてゆくような感覚でした。
治療再開を果たした今は、多少の痛みはありますが、大丈夫です。痛みにも慣れてきました。
私の体はこんなもんだと割り切れるようになりました。
ホットフラッシュというのもけっこうきつい症状です。
顔から火が噴き出すように熱くなり、だーーーっと汗が出ます。
時間的には2,3分。
そしてそのあとに今度はガタガタとふるえるほど寒くなったりします。
と、そんな症状がずっと続いたので主治医に相談しました。
すると当帰芍薬散という更年期症状緩和の漢方を紹介されました。
私たちの場合(乳がんをした人ということ)更年期症状があってもホルモン注射を打つわけにはいかず、症状改善ができないと思っていたのですが、この当帰芍薬散という薬は、使っても影響がないというデータがあるというのです。
で、処方してもらいました。
当初は画期的にききました。
でも1ヶ月後には飲んでも飲まなくても変わらなくなりました。
気のせいだったのかな?
よくわかりませんが、今は服用していません。
服用していなくてもホットフラッシュの回数が以前の半分くらいになったし、
考えてみれば、病気をしなくてもいずれは身にふりかかってきた症状です。
みんなそうなんだ。女性ならみんな経験するんだということで納得しました。
現在、48歳。
そろそろ更年期のど真ん中の年齢だからでしょうか。
この時期、うつになる人もいるといいます。
私は幸い、ノーテンキな女なので気分が過度に落ち込んだりすることはありません。
ホルモン療法はいつまで続くんだろう。
友人で同じ乳がん治療中の友人に聞いたら、私がやっている治療の後に
まだ薬を服用しているのだとか。
閉経後の人の内服薬は前に私も飲んだことがあるのですが、それほど高額ではありませんでした。
でも友人は月の薬の金額が三万円にもなると言っていました。
いろいろな治療方法があるのでしょうが、現在4週間ごとに二万円ほどかかり痛いのに、これ以上の出費は勘弁して!!!!と言いたいなぁ。
副作用も怖いけれど、医療費はもっと恐いがん治療です。

乳房再建ではなくシリコンパッド


わたしは左の乳房を全摘出しているので、いろいろな場面で困るなぁと感じることがあります。
一番困るのは前にも書きましたが、温泉などに行く時です。
友人たちはそんなに人はあなたのこと気にしていないよ、と言いますが、
やっぱり気にしてしまいます。
実際に、近所の温泉施設に、疲れきったときに行くのですが、人の視線を感じます。
悪気があるわけではなく、あれっ?ないんだ!って感じの軽い視線だと思います。
でも、ああ見られているな、と感じ、気がひけるその心の動きは止めることができません。
そんなことを気にせず堂々としている女性を見たことがあるのですが、
私はまだそこまで達観できず、もう少し年齢を重ねないと無理な気がします。

プールというのも非常に困ったもんです。
水着を自宅から着てゆけば、着替えの苦痛は一度しかありません。
ですが実は水着の下につけているシリコンのパッドがずれてしまい、
おかしな胸の人になってしまうのです。
以前にはプールで1キロ2キロ泳ぐことを運動としていましたが、ここ2年は気おくれし、
プールに泳ぎに行っていません。
なので海も苦痛です。

乳がんにかかった人の本をあれこれ読むと、乳房再建で人生がまた前向きになった、
というものを目にします。
もともと胸の大きい人は、片方の乳房を失うと完全に体のバランスを崩し、生活に多大な支障をきたします。
肩コリ、からだの傾き、服選びなどなど。
精神的な落ち込みも大きいようです。
胸の小さな私は、大きな人ほど支障はないはずです。
が、よく写真を撮られるときになると、極端に体が傾いているので直してくださいと言われます。
言われても自分ではよく直せず、撮影者さんになおされると、その直される幅がとても大きくて
びっくりしたりします。
そんなふうに傾いているからでしょう、肩コリは以前にもましてひどいです。
頭痛もよくきます。
疲れて眠るときなどは体中が痛くて、うんうん言いながら体制をあっち曲げこっち曲げして
調整します。

私は今、死ぬのがあまり恐くありません。
不思議ですが、死ぬまで精一杯生きると決めてからは、やるべきことをして死のうという明確な
意志、目的を持って日々すごしています。だから恐くないのです。
でも手術は恐い。
乳がん手術は痛くなかったので平気なかんじなんですが、乳房再建はみなさん痛みと闘っているようでそれがとてもいやなのです。
へたれです。
と同時に、再建をするとその下に乳がんが出るような気がする、という根も葉もない確信が
あってできないのです。


乳房再建は嫌なのでシリコンパッドで乗り切ると決めているわたしですが、
日常生活のなかでたびたび、ああ胸がないからこれだよ!!っとため息が出る場面に
遭遇し、病気の影響の大きさを感じずにはいられません。

2009年5月18日月曜日

乳がんになってよかったこと

がんにかかったことがない人はきっと、ガンなんて恐い病気にかかって気の毒だ、そのうち死ぬんだ、  
心配をたくさんかかえて生き行くなんてかわいそう、と思うかもしれません。
患者であるわたしも完全に心配ごとがゼロかというとそうでもないのですが、手術から3年。
今にして思うと、悪かったことよりよかったことのほうが多くて、感動すらする毎日です。

一番よかったのはよい友人ができたことです。
がんの友人もそう。
がんでない友人もそう。
なんかね、がん友達は同じような境遇のなかでわかりあえるというか、気兼ねなく話せる友人です。
一方、がんでない友人というのは、前から友人だったのだけれど、乳がんになり治療をつづけているわたしを、そのまま受け入れてくれる友人です。
けっこう淘汰されました。
離れていった人もいました。
でも残っている人は本当に大切で、一生なにがあってもつきあい続けるなと確信できる友人です。

それから、自分の人生をじっくり振り返ったり、これからやるべきことを見極められたこと。これは二番目によかったことです。
今まで無理しすぎたな、という反省があって、今まで睡眠時間が少ないのが自慢だったけどとんでもなかったな、とわかったりしました。
これからは無理しない範囲で、本当に必要で大切な仕事をしよう、任務を果たそうという筋のとおった決意(?)をしています。

1日1日を大切に過ごすようになったのもよかった点です。
会いたい人にはなるべく会う。
食べたいものは食べる。
行きたい場所には行く。
やりたくてできなかったことにトライする。
いいたくて言えなかったことをいう。

人に前より寛容にもなれました。
前はわたしは怒りを起爆剤に日々生きていたんですが、今はめったに怒りを感じません。
文句いってもしょうがないよと思うことが多くなり、
あの人はあの人なりに思ってのことでしょうし、いいんじゃない?と考えられたり。

そうそう車の運転もすこぶるよい人の運転になりました。
周囲の人の運転に文句がなくなったし、スピードを出して数分を縮めることに頭がいかなくなった。


こうやって書くとなんか好好爺みたい。


反面、ここで言わないとダメだと思ったら臆せず言うし(前もかなり自由にしゃべるほうではありましが)、これを今やらないと後悔すると感じたら突っ走ることもある。

生きて人から影響を受けたり、ひとに影響を与えたりするってのは、実にすてきです。
生きているかぎりは家族や友人、社会でであうひとたちとよくかかわりあいたいなと思います。

動物好きが高じて動物ライターなどしていますが、鳥は苦手な分野でした。近頃は春だということもありいろいろな野鳥がさえずっているのを聞きながら、その姿を見ながら、野鳥にもっと詳しくなりたい!と思ったりしています。 これもささやかな変化。

しっかりものの母親を目指すのは完全にやめて、欠落点が多いおなじ人間の目線で子供たちとつきあうことに満足しています。 それしかできないしね。子供たちも面白がっているしね。

夫の仕事とか考え方に、あれこれ文句が多いわたしでしたが、気にならなくなってもきています。
自分のなかに攻撃的な面が少なくなってきたら、笑って夫婦で話せることも多くなってきました。

自然体。

これは当たり前のことなんでしょうが、わたしにとっては、最近ようやく自然体になれて、楽な生き方に変わってきたように思えます。


これらの変化は乳がんになっていろいろ考えたり、治療を通して体験したり、感じたことなので、乳がんさんありがとう!という気持ちがやっぱり強いのです。


今後病気が再発したり、ほかの部位に違うがんができたとき、
わたしは今ここに書いているような冷静さを保っていられるのか。
ときどき考えます。
できると思います。
少なくても最初に乳がんがわかったときのような取り乱しはないでしょう。
毎日をきちんと意識して生活しているので、もうこの先はどこで途切れてもいいと納得しています。
ただし死ぬときまで精いっぱい生きる覚悟もあります。

乳がんになって悲しかったこと


わたしは今、病気だから悲しい、ということがなくなっています。

でも、ここまでくるのにいくつかの山を越えねばなりませんでした。



一番高い山は仕事にまつわるものでした。

わたしはそれほど文章力があるわけではありません。

編集者として優秀なのかといったら、そこもほどほど。

ですが、

WRITINGの仕事が大好きです。

一番得意な動物関係の書籍や雑誌の記事作りはその中でも大好きですが、今までやってきたさまざまなジャンルのWRITERとしての仕事がなによりものいきがいです。



ですが、乳がんの手術を受け、リハビリで腕がうごかせるようになって、いきおい退院してきたあとで、仲間のひとりと思っていた人に、

病気を完全になおしてからでないと仕事はまわせないよ、と言われたとき、目の前がまっくらになる思いでした。



がんの中でも乳がんは完治と判断できるまでに時間がかかります。内臓癌なら5年、血液のがんなら7,8年といわれますが、乳がんは少なくても10年、本などには最近は20年とも書かれています。



わたしには当初、もうあなたには仕事は任せられないよと、印籠を渡されているように思えたのです。





しかし、そう表現した人は、血も涙もない人ではなく、こちらの体を思ってくれている人なのだ、と徐々に気づきました。

時間も不規則、仕上がるまでに徹夜や精神的負担も大きい仕事だから、仕事をふったあとに体調を悪くされ、穴をかけられるのも困る、という判断はきっとあったでしょうが、人間的にも好きだった人。人を思いやる心も大きな人だったのですから。



わたしは今、またWRITINGの仕事をぼちぼちやっています。

動物関係はへりました。

しかし新しい分野、そして前からやりたかった創作へと少しだけ進路変更して、自分なりに続けています。







 先日ある新聞にがんで仕事を追われた人々の記事が出ていました。

 第一線でバリバリ仕事をしていた人が、病気を境に閑職に追いやられ、いたたまれなくなって自ら辞めたはなし。

 上司に再三にわたって臨時職員への降格をすすめられ、飲まざるをえなかった人のはなし。

 続けていた仕事ががん治療で体力的に難しくなり、自分から転職。しかしこの不景気も手伝って、いままでのキャリアとはまったく関係ないパート仕事のみになった人のはなし・・・

 みにつまされる記事でした。


 がんに限らず、ストレスからうつになったり、交通事故で後遺症が残ったり、人が生きていればいろいろな病気や事故と遭遇します。
 でも本人がやれる、やりたいと言っている仕事ならやらせてあげてもいいのにさ。
 多少効率が前より下がるからって、会社のお荷物みたいに扱うのはどうなんですか?なんて言葉に出して文句いいながら、わたしは記事を読みすすめました。
 
 がんと聞くと、あああの人もう死ぬのねと思う人が多いのですが、どっこい、近頃は治療方法が画期的によくなり、また東洋医学や生活習慣改善の方法論も増えて、元気に復帰していく人もたーくさんいるんです。
 人は自分がその立場にならないと理解できないところはあるとは思うのですが、あまりに鈍感な人ってのも多くなっているなと思うこのごろです。

で、かくいうわたしは、仕事の大部分を失ったという悲しい現実からどうやって復活したか。
ポケモンではないけれど捨て身タックルで生きることを決意し、100人いたら50人に理解されればいいだろうという達観ができるようになり、そしてなにより、自分が死ぬその日まで精一杯いきてやろうと、わたしは仕事をして家庭も持ち続け生きてやるんだと、そこはひけないと思ったことで元気になっていきました。

 乳がんは女性がほとんどの 病気。乳房を失ったり、更年期障害にせめたてられたりするので、あまり人に言わない患者さんもいます。
 ですが、ひょんなことから話している人が同じ病気だとわかったときには、一気に親しくなり、女性だけにしゃべりまくって、情報交換もし、おたがいを大いに励ましあうという展開になることもあります。
 なんかそこのところが最近わたしにはステキ!って思えるのです。





 

 

2009年3月9日月曜日

抗がん剤治療⑧めまい、たちくらみ、胸の痛み

抗がん剤の副作用の中には、非常にマイナーなものもあります。
風評とか本の中にでてこないその人特有の副作用、というのもあるようです。
わたしの場合には、前半に行った真赤な抗がん剤、ファルモルビシンとほか二種の混合剤のときに胸の違和感を感じました。
気管のどこか途中にコルク栓をつめ られたような感じなのです。
花粉症の時期にあまりに咳が激しくでて、胸のあたりが重く圧迫されたかんじになるんですが、
それと似ていました。
ただしせき込んでもいないのにコルク栓がつまっているかんじ、です。
プラス、抗がん剤投与の2,3日目に胸に痛みがくるのです。
心臓を締め付けられるというのではありません。
肋間神経痛のようなかんじ、でしょうか。
診察のときに主治医にそのことは伝えはしたのですが、聞いたことないなあ、
知らないなあ、とのれんに腕押し返答。
外科の先生は、どうも治療後の患者の個人レベルの声には興味がないようでして・・・
というか、うかつに想像でものを言ってもしょうがないわけで、きっとわからないのだな、
と思うことにしている今日この頃です。

次に後半に使ったタキソテール剤のときには、めまい、たちくらみがひどくなっていきました。
歩いていて突然目の前が真っ暗になり、気づくと道端で倒れていたということもあったくらいです。
誰も助けてはくれなかったという事実にショックを受けたり、
助けられる以前に、わたしが倒れた場所は人どおりが少なく、誰も通らなかったのかも、
という想像をしてみて、またこれも怖いことだな、と思ったりしました。
目の前が真っ暗になって倒れたのだから、副作用で貧血になったのでは?と思い、
診察のときにまた主治医に告げました。
しかし血液検査の値では、わたしは貧血という状態ではないようで、先生はしきりに
貧血じゃないよ、たちくらみでしょ?と繰り返すのです。
これってどう違うの?????ってのがすごく疑問でしたが、ついぞはっきりした
答えをもらうことはありませんでした。


思うに、メジャーな副作用について医師に、外科医に相談しても、本にのっている程度の返事しかこないし、マイナーな副作用が出てきて不安で相談しても、力にはなってくれないし、
癌治療というのはこんなところにも、困った問題が潜んでいます。
もしかしたら内科の先生のほうがそのあたりの意識とか情報とか知識はあるのかもしれない。
末期の肺がんで他界した母は、手術なんてできる状態ではなく、呼吸器科内科、肺がん専門の主治医につきましたが、副作用で患者がどうなるという話は、よくわたしたち家族にも説明してくれたし・・・

そんなときに力強いのは、患者同士の情報交換です。
それぞれのがん患者で励ましあう会などがありますし、癌、あるいは難治性疾患の患者会でも
医師や医療関係者を巻き込んでさまざまな情報が紹介されています。
ネットなどで検索して、わたしもよく読み漁っています。
また同じ病院で知り合った仲間、偶然同じ病気だとわかった周辺の人々と親しくなって
教えてもらうその人の症状や体験。 
それらを自分のものと比較したり、あてはめてみたりしながら、自分の体のことを
納得していくのが遠回りのようで一番の早道だとわかりました。

癌って、学ぶ気をもってつきつめないとなかなかつらい病気かもしれない。

抗がん剤治療⑦白血球1000


抗がん剤治療といっても薬の種類は多く 、副作用はさまざまです。
その前に、癌とひとくくりにいっても種類が多く、乳がんにしろ、肺がんにしろ、胃がんにしろ、大腸癌にしろ、もうそれぞれ違う病気である、と考えた方がいいのです、とは医師の言葉。
かかってみてわかったのですが、それぞれ癌によって治療方法とか予後の取り方とか、どのくらい再発しないでいれば治ったと言えるのかの基準など、まったくばらばらです。 癌の広がりかたとか、成長のしかたも全然違います。


という出だしで書いてみてはいますが、自分が癌になってから仲良くなった癌仲間の人たちと話をしていると、抗がん剤を投与された場合の吐き気と、投与後にやってくる白血球のダウンは程度の差こそあれ、みんなあるようです。
髪の毛が抜けるという副作用はすごく目立つ副作用なので、ほとんどの人が抗がん剤を使うと毛が抜けてしまうというイメージを持っていると思いますが、これは出てこない抗がん剤もあるようです。
わたしと一緒に抗がん剤治療に通っていた年上の友人は大腸癌ですが、彼女は吐き気と闘いながらも最後まで毛がふさふさとしていて、とてもうらやましかったものです。
さて、ところで本題の白血球ですが、これはもうかなり下がりました。
3800~9800くらいという値を示す白血球の数が1000までダウンしました。
白血球が下がると、すくに感染症を起こしたり、体のキズが悪化したり、風邪、病気にかかりやすくなるので、抗がん剤投与のあと、わたしの場合だと10日目くらいに病院にいき、血液検査。
数値が低いと白血球をあげる薬を注射してもらいます。
これは2日か3日おきにしてあげていくのですが、毎回7000円くらいかかるので、ふところが痛いのです。そしてようやく元通りの白血球?というところで次の抗がん剤、と進んでいきます。
予断ですが、このころの私の治療費はつきに8万ほどもかかっていまして、この高額の治療費のために癌治療がなかなかできない人々も多いのです。なんとかならないものでしょうか。
癌は国民病というか、誰でもがかかる普通にして多い病気なのですから。
わたしの場合は、がん保険さんありがとう、というかんじでした。
かけていなかったらとても対処できなかったでしょう。
前にも書いたのですが、わたしの白血球の数はどうも人より少なく、今も検査で数値を見ると平常時で3800くらい。最低のラインです。
ところがこれは自分の勝手な解釈ですが、わたしはこの人より普段から少ない白血球のおかげで、抗がん剤治療の最中でも白血球が落ちてしまったからといって体調を崩すことが少なかったように思うんです。
医師は、この数値ではお年寄りならたいへんなことになっていますよ、とよく言っていました。
看護師さんも、マスクしてきてください。病院はもっとも細菌がうようよいる場所なんですから。
本当にたいへんな病気を抱え込むとたいへん!
とアドバイスしてくれました。
最初はマスクをして病院に入っていたのですが、病院という場所は病気で体が弱っている人々が体力を消耗しないように空調で温度が高めに設定されているのです。たぶん27、28度くらいだと思います。
なので暑いのです。マスクでむれるのです。
鼻が低いのにメガネをかけているので、曇るのです。
自分の呼気でまったくなにも見えなくなるのです。
それが嫌でやめてしまいました。
うがいを後ですればいいんじゃない?という考え、病院を出たらすぐに手を洗えばいいんじゃない?
と思っていました。
たぶん普段9000くらいもある人が1000まで落ち込んだら一大事なんです。
でもわたしは3800くらいから1000ですから四分の一なんですよね。
きっと普段から低い白血球ながら自己防衛している体なので、ことなきを得たのだと思っています。
そんなわけで抗がん剤治療の回数が重なり、先生も徐々にわたしの普段の白血球になれてきて、
最後のほうは2000くらいでも白血球をあげる薬を使わなくなりました。
もうけたもうけた、と思ったものです。

抗がん剤治療⑤膨満感



後半4クールおこなったタキソテールという抗がん剤では、脱毛より膨満感に苦しみました。

味覚がゼロになったことは前回書きましたが、そのときに腫れてしまった舌は、胃を悪くした症状のひとつでもありました。
胃の症状として出てきたのが、消化しない、ガスが異様にたまる、というももの。
ほとんど食べていないのに、おなかはガスで膨らみ、ウエストが10センチ近くも大きくなりました。

椅子に座るのもしんどい膨満感。
座っていることがつらくて自宅ではねっころがっていることが多くなりました。

でも、職場に出ているときの私はめいっぱいガンバッテいたと思います。
つらい?
と病気のことを知っている人は聞いてくれますが、いつも
全然大丈夫よ~~!と答えていました。

今にして思うと、当時の私はとてもけなげで、がんばりやさんでした。
生来が自堕落な生活にすぐに陥るのですが、よくもまあ、外では弱音を吐かなかったな、と感心します。

がんなんていうと誰でもがビビル病気。
そこに持ってきて恐怖心をあおるような態度とか顔が見せられなかった、のだと思います。
精一杯健康でしゃっきりしているところを見てもらいたかった・・・・
そんな体裁、いらなかったのかもしれませんが・・・

さて、膨満感が続き、どうしようも苦しくなったときに、妹に相談しました。
妹の夫は医師で、夫婦で医院を開いています。
医療の知識もあるので、なにかよい薬でもないかしら?と聞いてみたのです。
実をいうと、相談するまで、苦しさの原因がガスが異常にたまっているのだとは
わかりませんでした。
ただおなかが苦しい、座っていられない、痛いのではなく身動きできない感じなのだ、
などと症状を打ち明けました。
するとわたしが使っている抗がん剤の場合、胃の動きが止まり、ガスがたまって膨満感に苦しむことがあるよ、
と教えてくれました。

そして、いくつか改善する方法を紹介してくれました。
医師である妹の夫もアドバイスをいろいろくれました。

普段の健康体なら、きょうだいの病院で薬を処方もしてもらうのですが、わたしには主治医がいるので、次の診察のときに膨満感がとにかくひどいので、ガスを外に出したいのだ、と
説明することにしました。
そしてほしい薬を手に入れられるようになったのです。

この薬は本当に見事でした。
飲むと、とたんにおなかの中身が動き出す感覚が訪れます。
そしてまったく出てくれなかったガスが一気に出るのでした。
一気というより一揆、おなかの一揆というかんじ。
なにしろ最初に出たガスは、10秒以上も止まらないほどだったんです。
ぶーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(はしたない話でスミマセン)

わたしも本当にびっくりしました。
でも出てくれると本当に楽になり、普通に椅子に座れるんです。
ありがたいな、ガナトンってかんじです。

ただし、薬は飲むとほどなくして我慢しがたくガスが出るので、
職場では飲めません。
実は最初は飲んでいたのですが、職場で人前でぶーーーーっとやってしまいまして、
顔から火がでる思いをしたので、やめました。
職場では相変わらずやせがまんをし、自宅に帰ってくると即座にかつらを放り、
ガナトンなど膨満感を改善する薬を服用して、たまりにたまっていたガスを出して
ほっとする・・・・
そんな毎日でした。
家族もあきれていましたが、それでもしょうがないことと許してくれたのがありがたかったです。


私がそうだったように、抗がん剤で出てきた症状をきちんと医師に説明して、
あう薬をもらうことにも技術が必要です。
苦しいとしかわからなかったのを、ガスがたまって膨満感となり苦しいのです、と
説明しないと伝わらないから。

わたしのこの経験が誰かの改善へのヒントになるといいのですが・・・・

抗がん剤治療④味覚喪失


抗がん剤治療で二番目につらかったのは、味覚がなくなったことでした。
味覚は、最初、塩分を感じにくいというところからスタート。
徐々にひどくなり、最終的には完全になんの味もわからなくなりました。
舌が腫れて、ハリーポッターに出てくる、ウィーズリーきょうだいの双子のフレッド&ジョージが作り出した、舌が貼れる魔法のお菓子を食べたようでした。

主婦、おかあさんでもあるため、食事作りには本当に困りました。
自分が作っているものがどんな味なのかまったくわからないのです。
このときも息子がずいぶん手伝ってくれました。
つまり私の舌となり、味見してくれては薄いだの濃いだの、何の味が足らないだのと
教えてくれたのでした。

ちょっと話はそれますが、人によっては自分の乳がんのことを子供たちに伝えない人がいます。
わたしの周囲の人には何人かいます。
一方わたしは、しゃべりすぎなくらい、子供たちに何でも伝えていました。
今どんな状態か。
どこが痛いか。
病院でこう言われた。
お母さんが死んでしまうかもしれないから、こうして、ああして・・・・
反省するところも多いのですが、
一方でわたし自身がめげてしょんぼりする反面、闘志満々であかるい時も多かったので、
子供たちは乳がんという病気をかなりきちんとわかったうえで、
あまりそれを思い悩むことなく生活していたと思います。
今も、です。
息子などは知人が電話をかけてきて、
「お母さんはどう?」と心配げに尋ねたのに対して
「はい、がんの割に元気です」
と明るく答えたといいます。
知人は、よい伝え方したね、よい子に育っているねと
息子や私(?)を褒めてくれました。
自分ではよく認識していませんでしが、そう言われることはなんとなくうれしく、
よかったのかな?と思う要因になっています。
わたしの子どもたちは、私が調子がいいときには、普段とおりの
わがままもいう、片付けも手伝いもしない子たちでしたが、
調子が悪いときには、本当に献身的に、一生懸命手伝ってくれました。
これはすごい収穫でした。

さて、味覚の話に戻ります。
息子の助力でわたしは毎日ほぼ3食、ご飯作りをつづけましたが、
自分の食欲は本当になくなりました。
とにかく体を維持し、体力を落とさないために食べましたが。
ちなみに味覚はなくても空腹感はくるので、おなかはちゃんとグーとなったりしました。

今から思うととても残念なのは、子どもたちと行った夏の和歌山・三重の旅行での食事です。
おいしいものをたくさん食べたはずですが、その記憶はありません。
というか、このときにも味覚ゼロだったので、胃にいろいろ入れていたというだけで
何も味わうことができませんでした。
なので子供たちに、しょっちゅう
「どう?おいしい?」
「どんな味?」
「おいしいならたくさん食べなさいよ、お母さんの分も」
と言ってばかりいました。
そのうち、また機会があったら、あの地をまた訪ね、今度は率先していろいろ味わいたい。
私はひどく大食漢なうえ、食べることが何より好きなのですから。
リベンジはしたいものです。

味覚がなくなった時にためしたことがあります。
とんがらしとかわさび、タバスコ、ハバネロなど辛いものも味がわからないのか。
すっごい甘いものはどうなのか?
すっぱいものはどうなのか?
香りがうんと強いものはどうなのか?

お酢をそのまま飲んでも、砂糖をそのまま食べても味はわかりませんでした。
激辛のものも味はわかりませんでした。
でも舌が反応するので、ああ、この刺激かとわかります。
つまり味ではなく痛みが感じられるのです。

香りの強いものとのど越しがいいものは味がわからなくても食べてそれなりに満足できるもの、
でした。
前にも書きましたが、くさや、酒盗は一番食が進むものでした。
鼻から強い香りが入ってくるので、それをたよりにごはんが食べられました。
ただし塩分が強く、しばらくして体がずいぶんむくみました。
とまとは、のど越しが好きでした。
冷たくしたとまとは、いつも冷蔵庫にたっぷり入れてあり、
空腹を感じると、とまとだけガブリガブリと食べたものでした。

味覚障害。
きっとこれから私と同じ抗がん剤を使う人たちも
多かれ少なかれ体験すると思います。
そんなときには鼻で香りを感じられる好きな食べ物、
のど越しを気持ちよく感じられる食べ物を探すといいと思います。

味覚を回復してくれる薬はどうもないらしく、
治療中はどうしてもたえないといけないのがつらいですが、
抗がん剤をやめた途端、戻ってきますから
その日を夢見て過ごしてください。

抗がん剤治療③脱毛編


書いたら書きっぱなしにしてきたこの新ブログ。
いまさら読み直してみて、誤字脱字、表現がおかしいところ、年齢をまちがえて書いていること、などに気づきました。ものかきのはしくれなのに、はずかしいことです。
ですが、あえて直さないでおこうかな?なんて思ったり。
書きながら自分なりに動揺したり、戸惑いを思い出したりしたときに間違いが出ているようなので
めちゃくちゃな文章も、私の表現のなにかかな、と。
ちゃんと訂正しないといけないのは手術したときの年齢。
46歳ではなく44歳、もうすぐ45歳になる直前に乳がん手術を受けました。






 さてさて、抗がん剤で髪の毛がなくなることはよく知られています。
事前の説明でも先生はまっさきにそれを私に告げました。
頭の毛がぬける。
抜けかたは人それぞれで、けっこう残る人もいる。
そんな説明だったので、楽観視している自分がいました。
それと先生の言葉通りでしか理解していなかったので、抜けるのは頭の毛だけ、
みたいに思っていました。
 実際に抜けてしまう前に、頭だけではないの?とそこに気づいたのですが、
それは妹の言葉からでした。
「まつげとかまゆげも抜けるんだろうかね・・・」と何気なく言ったのです。
あっ!そうだよね~~と、不安が増大したことを覚えています。


実際には私の脱毛は人よりたいへんなものでした。
外国の競泳の選手の中にときどきいる人のように、
完全に頭はツルツル。顔もツルツル。
体もツルツル。下の毛もわきの下もツルツルになったんでした。
悪かったことは数知れず。
それは後ほど書きますが、よかったことは、ちょうど夏だったので
脱毛の必要がなかったこと(笑)でしょうか。
剃って毛がないのではなく、毛抜きとかレーザー脱毛で完全にきれいにツルツルになった感じでした。


毛の抜け方はこんなでした。
まず抗がん剤の最初の一発を体に入れて直後から、
お風呂で頭を洗うと洗ったお湯がオレンジになりました。
私の使った抗がん剤はトマトジュースみたいな赤い薬。
それが頭皮を通して外に出ているのでした。

そして1週間くらいして頭皮に痛みが出てきました。
ピンをとめていると、あるいは髪をしばっていると、ときどきとったときに痛み出ませんか?
ずっと左わけで固めていた髪の毛を右に変えたときに起こる違和感をともなった痛み。
それを何倍かに増大させたような痛みです。

そして髪の毛からどんどんツヤがなくなっていきました。
古い人形の毛のようでした。
パッサパサ。
「ああ、まだ毛はついているけれど、栄養は完全に断たれている死んだ状態なんだな」
と思いました。

痛みが出てくると、毛はどんどん抜けていきました。
ひっぱると抵抗なく抜けるのです。
ベッドや枕を毛だらけにしたくなかったので、早いうちに頭をスキカルくんで五分刈りにしました。
同時にかつらを注文し、ショートボブのようなかつらをかぶり始めました。
ひっぱると抵抗なく抜けるとはいってもさすがに髪の毛の本数は多く、
完全にきれいに抜け切ることはありませんでした。
そこで、わたしはガムテームを頭につけてベリッとやりました。
気持ちいいくらいとれたし、痛みはありませんでした。
頭髪が完全になくなるまで、毎晩、息子に手伝ってもらって、
ガムテープで髪の毛を取り除きました。
息子は、髪を抜くことが習慣化してしまい、そのうち自分の頭の毛もピチプチ抜くようになりました。
ある日、息子の頭頂あたりに500円玉くらいのハゲを見つけ、わたしは叱りました。
あとあと考えると息子なりの思いやりがそのハゲを作ったと思います。
私は叱ったことを今もすまないな、と思っています。
っていうか、ガムテームの作業を手伝わせたことが罪深いかな?と反省しています。


こうして私の頭はツルツルになっていきました。
ツルツルになってみると本当に困ったことがありました。
かつらが簡単にずれるのです。
髪があるうちにかぶる練習を人知れずしていたときにはひっかり過ぎてかぶりにくく
思ったものでした。
五分刈りにしてからはけっこうイイ感じでかぶれたのでした。
ところがツルツル頭にはとっかかりというか、かつらがひっかかる場所がないのです。
ちょこっと汗をかけばかつらはずれました。
きつめに調整してかぶると締め付けから痛くなりました。
毛のない頭は守ってくれる存在を失ったたよりない存在で、すぐにかぶれたり湿しんやおできが
できたり、荒れたりしました。
かつらは正直、本当に嫌でした。

自分が髪の毛を失ってからは薄くなっていく夫の毛のことをいっさい言わないようになりました。
今まで申し訳ない冗談を飛ばしたり、どうにもならない指摘をしてすみません!
という気持ちになったんです。
自分が同じ立場になると、ひとの苦しみ、痛みがわかる。
それを絵にかいたようなものでした。


前半4クールの抗がん剤では、頭髪と体毛の大方がなくなりましたが、
まばらにまつげとまゆげが残りました。

ところが後半に使ったタキソテールという薬では泣きました。
まつげ、眉毛、下の毛が新たに完全になくなったのです。
人の顔って眉毛まつげがないと本当に間抜けです。
私は眉毛もまつげも人より濃くて長かったので、本当に落差が大きかったです。
抗がん剤の影響でむくみもきていたので、別人の顔になりました。
必ず毎朝、化粧を時間をかけてしたのですが、
(さも病人の顔には死んでもなりたくなったので)
眉毛をかき、まつげの場所にアイラインを引いていくのに、もっとも時間をかけました。

そのアイラインには本当に高度な技術が必要となりました。
むくんだ目の周辺の肉が、外にこぼれてくるような様子の中で、
どこが眼ブチか、そこから決めないといけないのです。
まつげがあった内側、眼球近直に思い切りよくひかないといけません。
でも必死でわたしはその技術を身につけました。
今もそのとき身につけた技術はいき、今、化粧には自信があるのでした
(エヘン)

下の毛というのも下世話な話ですが、大切だと思い知りました。
一本もないというのは温泉などにはいるとき、頭髪がないよりはずかしく思いました。
大人なのに・・・・っていうはずかしさです。

まつげとか鼻毛が一本もないのも、知らなかった大変の原因でした。
勝手に涙が流れる。
勝手に鼻水が流れるのです。
液体をとどめておく毛が一本もないのですから。
鼻の中が乾燥しすぎて鼻血がでることもありました。
一生懸命にひいたアイラインが流れる涙にのってゆがみ、
パンダのようになりました。
相当ウォータープルーフ効果の強い製品を使いましたが、
それでも、です。

アメリカに住んでいる友人がいて、彼女の周辺にはお母さんはじめ、親友、義理の妹など
乳がんの人が多いのですが、その彼女が言っていました。
アメリカの女性はおっぱいが片方なくても平気でジムのロッカーで上半身裸になって着替えるし、
隠さない人がほとんど。
でもみんな髪の毛や体毛がなくなることが何より悩みなのよね、と。

その言葉の意味がしみじみ理解できました。


頭におできなどができやすいと書きました。
夏だったこともあり、あせもが特に深刻でした。
夜、お風呂のあとにたんねんに塗り薬をぬっていたわりますが、
ぐちゃぐちゃになったこともありました。
仕事が接客に近いこともやっていたので、帽子はダメというのが鉄則でした。
ですが、あまりにおできが痛くなり、かつらでは耐えられなくて上司に
明日だけでいいから黒の帽子で対処させてください、と頼み、飲んでもらったことがありました。

仕事が終わり、あるいは外出を終えて帰宅すると玄関を入ったとたんに、
アメリカの海軍士官学校の卒業式のように、かぶっていたかつらを高く放り投げる。
これが抗がん剤治療中のわたしの日課でした。

思い出せばなつかしい、ですが、
あんなガンバリができた自分が少し前にいたことを、本当にえらいぞ!と思います。
今のわたしはまたヘタレに戻っていますから。
もう経験したくない・・・・



画像は熊野の三大社のお札(?)です。
抗がん剤治療の途中で子供たちと行った旅行で回りました。
なにか強い力にすがりたい次期だったので、神殿を前にして
えもいわれぬ感動を受けたものでした。
とてもつなかしいです。

2009年2月23日月曜日

抗がん剤治療②わたしを襲った副作用

抗がん剤治療をはじめる前に一番心配だったのは、ひどい吐き気、でした。

母の肺がん治療を見ていて、それがなによりつらそうで、見ているだにかわいそうで、これでガンがなくならないこともあるのであって、そんなとき、どうなぐさめたらいいのだろう、と繰り返し思ったものでした。

 その母を見ている私の視線が、そのまま家族の視線になるのかな、と思いました。

でも肺がんより副作用が少ない、と言われたのです。それを信じるしかありません。



 実際に始めてみると、副作用は回を重ねるほどひどくなる、と書きました。

ひどくなるのは、この吐き気が筆頭でした。

 吐き気は基本的には妊娠・つわりを経験した人ならちょっとなじみのあるものです。

 まさにつわり、でした。

わたしだけ?と思ったので、何人かの人に聞きました。すると、そうだ!つわりだね!これつわりだ!

という声が聞かれました。

 女性の象徴である乳房をやられて、その治療でつわりを経験する。なんだか複雑な気持ちです。



 回を増すごとにつわりはひどくなっていきました。点滴の途中からすでに吐き気がきて、このはきそうでむかむかする感じがまだ2時間も3時間も続くのだ、と思いました。点滴中は体にハリが刺さっているので、トイレにはきにいったりできません。看護師さんはここにはいていいよとシャーレみたいなものをしめしてくれましたが、ズラリと横に並んで何人もの人が抗がん剤を打っているところでなんとなく吐くのはいやでした。涙目になりながら、口元をおさえて我慢しました。



 点滴が終わったからといって、吐き気はおさまりません。

むしろ自宅に帰ってからが勝負です。

 人がいるところでは気をはっているし、迷惑をかけたくない一心でがんばれるのですが、自宅の玄関を入ったとたん、緊張の糸は切れ、超わがままで自分本位なわたしが出てくるのです。

 気分のよいときには今のうちに家族にしてあげられることはしてあげよう、とか、家族と楽しく暮らすことを第一に考えよう、などとやさしいわたしでいられるのですが、毎回、抗がん剤後1週間ほどは、自宅内ではいやな人、だったと思います。



 わたしはこの抗がん剤を受けながら、実は夏休み、子供ふたりを車に乗せて、2000キロもの運転をこなしながら和歌山、三重を旅しました。

 夫は直前まで行く予定でしたが、仕事が入ってしまい、わたしが運転するしかなくなったのです。

中止ということは考えませんでした。

 できるうちに子供たちと旅行に行きたかったのです。

 いつか具合がよくなったらとか、いつか病気がなおったら、などと言っていては、いろんなことができずじまいになりそうに思えました。



 不思議なことに吐き気と味覚ゼロと体のむくみと全身完全脱毛の状態でしたが、倒れることなく旅をやりとおしました。

 おいしいお料理のはずですが、食べ物は何をたべても味覚ゼロでしたが、旅の途中、子供たちをちゃんと楽しませてうちに無事に連れかえるという使命感が緊張感となって、また見て歩いた場所がとても素晴らしく気分が変わったこともあり、夜以外はひどい吐き気から解放されました。



そこで気づいたのです。

つわりは、なにかに夢中になっていると軽減されるようです。

というか忘れていられるようです。



ためしに旅から帰ってきてからも、吐き気のひどい時には積極的に友達に会ったり、仕事を休まず一生懸命体を動かしたり、日記を書いたりと、してみました。するとやはり、少しいいのです。

つらいから寝ている。これが一番わたしを落ち込ませ、実際に体調も悪くするようでした。





味覚がないので、なにを食べても味はわからないのですが、食べるととくに気持ち悪くなるものはありました。

たとえば焼き魚、です。

またワカメや昆布やもずくもなんとなく吐き気を誘いました。

これらは本来わたしの大好きです。

でも子供たちを妊娠していたつわりのときも、確かダメだったなぁ、と思い出しました。

やっぱり抗がん剤のつわりは、妊娠のつわりによく似ています。

そう思うと、男性が気の毒でした。

入院中も、退院して抗がん剤治療に通っているときにも、男性は苦しそうでした。

経験のない吐き気と闘っているのだと思います。

その苦しさ、気持ち悪さ、それが女性のつわりなのですよ、なんて軽口を叩ける雰囲気はなくだまっていましたが、そう誰かにいってみたいな、とよく思いました。



つわり経験者ならわかると思いますが、普段食べているものがダメになるかわり、特定のおかしなものが大好きになったりもします。

わたしは最初のコのつわりのときには大好きだったサンマがダメになり、お正月の昆布巻きがダメになり、そのかわりいつもいつも果物のビワが食べたくなるのでした。

二番目のコのときには、妊娠中ずっとつわりで、完全に産んでしまうまで、分娩台の上でも気持ち悪かったのですが、チョコレートを食べている最中だけは大丈夫でした。

そのためチョコレートの食べ過ぎで便秘はするわ、極度に太るわ。

妊娠中毒症が出て、医師にチョコ禁止、体重落とせと言われました。

三度目のつわり、抗がん剤では、

トマト、カツオの酒とう、くさやが常に食べたかったものです。

冷蔵庫にはトマトが常に十個以上並んでいました。妹などに頼んでくさやを買ってきてもらいました。カツオの酒とうはきらすことができず、ビンの中身が半分を切ると、即座に買いに行きました。



がん友達に話すと、彼女もトマト依存症のようにトマトが食べたいと言っていました。

ほかに漬物に嗜好が偏っていったそうです。



つらい治療でしたが、今思うと、おかしい状態の自分がおかしいことを日々やっていたりして、笑えます。



画像は我が家のイチゴです。
花が咲きました。
くだものの花がさき、実にあるのを見ているのは気分がいいですね。
わたしは動物育てが上手で、そこに才能があるのですが、植物はダメ。
これは息子が育てています。そんな、自分とは適性が違う子供たちを見ているのは
もっと楽しいです。
まだまだもっと先まで見ていたな、と思います。

2009年2月21日土曜日

抗がん剤治療①副作用はだんだんひどくなる



わたしが抗がん剤治療をしたのは、2006年の5月19日から

11月2日まで、でした。

前半は、ファルモルビシンと、5-FUと、エンドキサンで、4週間ごとに点滴をうけてに病院に通いました。

後半はタキソテール100mgです。こちらも4週間に一度ずつ、計4回の点滴でした。


わたしの母は肺がんで他界したのですが、治療に放射線、抗がん剤などが使われ、苦しんでいる様子をずっと見ていました。
そのせいか、あの我慢つよい母が耐えられない様子だったのに、どうしてわたしが耐えられるんだろう・・・と思ったものでした。

しかし医師や、友人は乳がんの抗がん剤は肺がんのものよりずっと楽なのだ、というのです。


入院中に大腸癌手術で入院していた人ととっても親しくなり、一緒に抗がん剤治療を受けられることになったので、励ましあいながら一緒に通ってやるか!と思いました。
それほど苦しくないなら、受けておいたほうがいいな、と思ったのでした。
抗がん剤を始めると伝えると親しい友人たちがとても心配してくれました。
1回目の抗がん剤のあとに何人かはメールをくれてこちらの様子を聞いてくれました。
本当に楽で、たいした副作用がないように思ったので、投与直後のメールはイケイケで、友人たちはとても安心しました。
ところが!
友人たちとのやりとりの後にあれこれ出てきたのです、副作用とか、体への反応が。
またなによりいやだったのは、1回目より2回目、2回目より3回目と抗がん剤治療が進むにつれて副作用がひどくなっていくことでした。
今わたしは、友人たちが
「乳がんの友達が抗がん剤治療を受けるの」と言うと、必ずこう言います。
1回目はけっこう楽だから大丈夫だよ~~~というと思うけれど、だんだん副作用がつらくなってくるから1回目のお見舞いメールや電話でやめないで、1か月1度ずつでも話を聞いてあげるといいよ。
話をしている間とか何か楽しめることをやっている間は副作用の吐き気が緩和したり、体調が楽になったりするんだからね!と

2009年2月20日金曜日

1年かけて浮腫の心配から解放されました


 左の脇の下のリンパ節ににゅうがんの転移があったため、そのリンパ節を摘出したのですが、
そうすることで、リンパ液の関所、関門である部分を失い、左うでにケガや、やけどや、なにか炎症
を起こすと、浮腫を起こすという危険性を持つことになりました。

その説明は手術後すぐに始まったリハビリの時間にされました。
リハビリの先生が注意してね、とアドバイスしてくれたのは、

ひりひりするほど日焼けしない
左腕や指さきに切り傷など作らないようにする
リュックや重いショルダーバッグを左肩にかけない
夏場たくさんの蚊にさされないようにする
左に注射、鍼治療、血圧測定をしない
あまり重い荷物を左でもたない
筋肉痛になるほど左ほどを使わない
左指には指輪をつけない、左腕には時計をはめない

などなどでした。
浮腫というのがどういうものかいくら説明を受けてもピンとこず、もやもやした不安でいっぱいになったものでした。だいたい浮腫はその禁止事項をした時には必ずくるのか。
私はこれから一生、今まで普通にやっていたことができないのか。
浮腫は治らないのか。
そんなことを考えては溜息がでるのでした。

少しずつ先生がたに質問していくと、浮腫は起こる人と起こらない人がいるとわかりました。
軽度の浮腫であれば、マッサージしたりや用具を使っての治療で治るけれど、腕が倍にも腫れてしまったときには元通りには戻らないとわかりました。
やむなく包丁で指を切ってしまったり、ケガしたときにはよく消毒して、なかにバイキンを入れないように注意することが大切であることも知りました。
マッサージの仕方は毎日復習することで、退院後も自分できちんとできるようにマスターしました。


退院後、しばらくはなんだか自分が無力で、なにもできない人間のように思い、落ち込むことも多かったです。だってだれよりも力持ちで、重い荷物なんか全部自分で持っていたのに、それを人に頼まないといけないのです。
毎年なんら気遣いなく日焼けのし放題だったのに、長そでをきたり、うでカバーをしたりして、左腕を日焼けから守らないといけないのです。
調理は短い時間でたくさん作るのが得意だったのに、指を切らないように慎重にゆっくり作業しないといけません。
愛用していたデイパックや大きなショダーバッグをやめて、ウエストバッグを購入。いつでも腕が空いているようにする生活がスタートしたのです。

いちいちが不便。
いちいちの動作に時間がかかるように思えました。

でも2か月、3か月たつうちに、そんなに神経質になるのはよそうと思うように変わりました。
まず、東京郊外の蚊がぶんぶん飛び回る地域で生活していて、蚊に刺されないなんて無理です。
根っからおちょこちょいでけがが多いので、けがを100パーセントしないなんて無理です。
家事、仕事のさまざまな場面で、どうしたって自分で重いものを運ばないといけない場面があるものです。

実際に何度も包丁で指先を切ったのですが、消毒をきちんとやり、ゴム手袋をつけて料理をするなどのケガ後のフォローで、少しだけむくむ程度で済んだりしたことが、自信につながりました。
蚊にもさっそく刺され、多少左腕が右より太くなりましたが、マッサージで解消したことが、楽観的に考える要因になりました。

わたしはとにかく丸1年、予防策はなるべくしながら、普通に生活しようと思いました。
春夏秋冬を過ごすことで、どんな程度のケガなら大丈夫で、このくらいの日焼けはヤバイなどなど
体得できるだろうと思ったのです。
まずは1年おとなしくしていて、無事に1年が過ぎたらほとんど手術前の生活に戻しても大丈夫なんではないかと思いました。

そして、予想どおり、多少の腫れは何度か経験しながら無事1年をクリアしました。
いまあと少しで術後3年になろうとしていますが、左腕は無事です。
今わたしの左手指には2枚のバンドエイドが貼られ、左腕には時計がはめられていますが、
大丈夫です。
リンパ節切除で胸、上腕、背中の一部にマヒがあり、感覚がありません。
蚊に血を吸われているとき、人はそれに気づきますが、私にはそれがわかりません。
自分の一部がマヒしているということを頭に入れて、日々生活していますが、それほど用心深くはしていないので、浮腫が起きにくいところを本当に感謝しています。

2009年2月19日木曜日

浮腫に気をつけて!って言われたけれど・・・



リンパ節も取り除く手術を受けたので、私はリハビリのときから

「左の腕を筋肉痛がくるほど使ったり、カバンを左腕にかけたり特に重いものを持ったり、鍼灸治療を受けたり、けがしたりしないように気を付けてくださいね。リンパ節というのは体の関所的な役割をします。リンパ節がない人はケガなどで体にできる異物をコしてくれるフィルターがないようなものなので、腕に浮腫が出るなどする人がいるんです。軽い浮腫のばあいには、マッサージや用具を使った処置ができますが、倍にも膨れてしまったときには元通りにもどすことができないので注意が必要なんです」

と作業療法の先生に言われていました。

左腕は蚊にたくさん刺されたり、指先のササクレでも浮腫を起こす人がいるそうです。肌があれる次期にはゴム手袋をしてあれないように注意してください。 包丁で手を切らないようにしてください。リュックや左の肩から思いショルダーバッグをかけることもやめてください、などなど注意は多岐におよびました。

浮腫がどんなものかまったく知らない状態で日々いろいろ言われたので、わたしはだんだんと不安が大きくなっていきました。

注意散漫で手を切ることなんか年がら年じゅうです。うちに帰ればまだ子猫状態の、しかも甘えては噛んだりひっかいたりする猫がいます。犬も子犬のときにもと飼い主に虐待を受けてとっさに人をかむことがありました。

わたしは自分のうちに帰って生活できるんだろうか・・・・・・・・

考えるほどに心配ごとが増えていきました。

うんとひどい浮腫の場合には、元通りの腕の太さに戻らない、というのも不安材料です。

とはいえ、腹をくくって生きているしかないわけで、とりあえずできる注意からしていくか、と思うよりしょうがなかったのでした。


わたしがさっそくやった注意は、まずお気に入りのリュック型のバッグを使わないことでした。

料理は得意で早いのですが、よく手を切るので、おそくてもいい、ゆっくり正確に切ろうと心しました。

東京の郊外で蚊なんてわんわんいる地域に住まいがあるので、虫よけスピレーや虫よけのパッチ、長そでを切るなど気をつけました。長そではひどく日焼けするのもいけないと言われていたので、その日焼け対策にもよかったです。

爪をかんだり、荒れてささくれだった指先の皮をすぐにぴっとひっぱってとってしまい、炎症させることが多かったので、もう指先は絶対に触らない!みたいに決心しました。

重い荷物は夫や子供たち、ひとに頼んで持ってもらうようにしました。

バッグはウエストで止められる大きなサイズのものを購入しました。


主婦で子育てをしている途中の女性は髪ふりみだして日々家事をこなしたり、生活労働をしているもの。人に頼まないと重い荷物がもてないとか、暑い夏に日焼けもダメ、蚊もダメ、家事での小さなけがモダメというのはすごいストレスです。

いちいち考えていては、仕事に時間がかかるし、いままで誰よりもちゃっちゃと動いていたのが、できないのですから。

食事やお弁当を作り始める時間を前より早くしたり、時間にうんと余裕をもって動かないといけないこと自体がストレスでした。



でも3,4か月たったころでしょうか。

浮腫は起こす人と起こしにくい人がいて、起こしにくい人はけっこういろんなけがをしたりしても大丈夫みたいだ、と同じ病気の人に聞いて知りました。

わたしはどっちのタイプ?というのが気になるところでした。

そこでまずは1年間、慎重に生活しよう、と考えました。

1年間というのは、春夏秋冬あり、年間の行事も経験でき、月々に変わる仕事の流れもわかります。

で、1年たってこれは私にはよくない。これをやると少しむくむ。これは大丈夫。

などなどわかったら、もうあまり医師や作業療法士さんがいっていたような細かい注意は横に置こうと思いました。

日々の生活に過度の用心深さは邪魔ですから。


まず1年かけて自分の生活サイクルにそって自分を観察する。

われながらいい手だったなと思います。


今わたしは蚊にたくさん刺されるとちょっとむくみます。

包丁でざっくり切るなど大きいけがをするとむくみます。

しかし、けがした場所をていねいに消毒し、マッサージを頻繁にすることで解消できることも知りました。

重い荷物はずっとでなければ大丈夫みたいです。

日焼けもある程度なら大丈夫。


時間をかけて自分を知ることで自分のおっちょこちょいぶりが改めて分かったり、

こういうときに自分はけがする、などステレオタイプがわかり、メリットもありました。



2009年2月16日月曜日

にゅんがん手術後のリハビリで腕を動かす練習をする


 乳がんの手術が終わった翌日からリハビリが始まりました。
早い時期から腕をあげたり回したりするリハビリをしないと、家事すらできないように固まってしまうから、なのだそうです。
 病院での目標は退院までにちゃんと左腕が真上まであがり動かせるようになること。
これがね、けっこうたいへんでした。
1日1回、リハビリ室でメニューをこなしながら練習するほかに、病室で自分で最低日に2回は決められた運動をしながら回復させようとしたのでした。
 なにがたいへんって、痛いのです。
 自分の腕とは思えないくらい腕は上がらず、上げようとするとすっごく痛いのです。
どんな痛さか・・・・そう、プロレス技で体を固められたときみたいなかんじ。曲がらないはずの関節を曲げられているかんじ、です。
 
わたしの病院はどちらかというとスパルタ方式でした。
リハビリの先生はとても優しく、気持ちのよいマッサージを入れながらやさしく教えてくれるのですが、看護師さんたちが熱血で、患者さん思いで、早く患者さんが自分で動かせるようにと、病室にきてはすっごい痛いマッサージをして帰ったり、いきなり腕を上にあげられたり・・・・
そのときは恨みました。
自分でもやってんだよ!
やっていても少し時間がたつとまた硬くなってあがらないんだよ。
どうしてそう無理にいろいろやるんだよ!!
っとぷんぷんでした。
ですが、退院するときにはほとんど自分で動かせるようになっていて、仕事復帰も早かったことを考えると、感謝しています、今は。
実は職場の人が、友人がね乳がんで入院して退院したの・・・と話してくれました。
その友人さんの病院ではスパルタリハビリはなく、っていうかほとんどリハビリの時間はなかったようです。彼女は退院してすでに2か月たつのにまったく腕が上がらない、と困っているそうなのです。
そうか、看護師さんたちを鬼!っとかって陰で言っていたけれど、
わたしのためにはとてもよい対処方法だったんだね、と思うようになりました。
それでも退院してからも毎日ちゃんと体操をしないと動かなくなります。
乳房と脇の下リンパ節をとったせいで、体の筋肉と骨のバランスがくずれ、胸と腕と背中の筋肉がうまく連動しない、という感じです。
でも、みんなが不安に思うこのリハビリと回復へのおそい歩みですが、必ず自分から動かすようにしていると、動くようになります。
私も入院中は、本当に動くようになるんだろうか、こんなに痛いのに、とか
ちょっと10分も動かさないと動かなくなるなんて、気持ちがおちこむなぁ・・・・
と、毎日不安でした。
でも今はちゃんと家事も普通にできるし、庭樹を切ったり、年末の大掃除をしたり、
力仕事だってバンザイ!だって、腕を振り回してのダンスだってできます。
人間は強い。
人間の生命力やリカバリー力はすごいです。
今不安の渦中にいる人は、絶対に今のこの状態がずっと続くわけではない!と
信じてくださいね。

2009年2月14日土曜日

いろいろ考えて全摘出にしました



 


 女性なら乳房を失うことはかなりのショックだし、リスクを背負っても温存を望みたい、と思うものかもしれません。


 私はちょっと普通の感覚に乏しいのかもしれない。


 


 乳がんの大きさは1.2センチ×1.2センチという小さいものでした。


先生は、小さいので温存ができますよ、と言ってくれました。


 にもかかわらず、私はほうぼうに相談したり、ネットで調べたりして全摘出でお願いします、と言いました。


先生は、手術直前まで考えていいからね、と何度もいいました。


ですが私の気持ちは温存をなぜか否定しました。






最初にそう結論づけたのは、直観からくるなにか、でした。


いとこが乳がんをやっていて、その時の先生が温存にしたくてしたくてしょうがないとかで、


いとこは温存しました。そして再発。結局2度目の手術で全摘出しました。


わたしはそのことが気になっていました。


そのせいもあるのでしょうが、きっと温存したらまた出てくるに違いないと思ってしまったのです。




私の母は肺がんで死んでいます。


ものすごい勢いでがんは大きくなり、そして病気がわかって半年で死にました。


その母をずっと見ていて、がんが私に出たときには、同じように勢いがあるタイプになるな、と


これまた直観で思いました。もっとも母子でとても体質とかもろもろ似ているもので、そう思ったのかもしれません。




直観なんて思いすごし、と思われるかもしれませんが、私はなぜか直観が否定できません。


理由はないのですが、すごくきっぱりと、断固としてそうに違いないと思ってしまうのです。


なので同じ理由でどうしても乳房再建ができません。


ヘタレで手術が嫌というのもありますが、これまた直観で再建したらまた出てくるような気がする・・・・のです。






手術をしてみたら、わたしのがんはそんなに小さいのに、脇の下のリンパ節にりっぱに転移していました。3つありました。


後々聞いたところでは、温存してくださいと私がいったとしても、結果として温存できない状況だったそうです。奇しくも直観が当たったといえるかもしれないですね。






手術前、きょうだいの夫が医者をしていまして、その彼にマンモやレントゲンの画像を見せて相談しました。


なんとなく温存より全摘出がいいように思ってしまうのだと率直に告げ、温存のメリットとデメリットが知りたいと伝えました。


一番のメリットは本人の気持ちだ、と。女性なら乳房を失うことはつらいでしょうからそれをしないでいいというのが一番のメリットだよ、と。またこれから子供を産みたい人、まだ若い人なら失うことが相当ショックでしょうから、そのショックを軽減できれば1番いいでしょう、と。


デメリットは、データ上は温存も全摘出も再発の危険度にそれほど違いはないけれど、医師として


温存の場合より全摘出のほうが、これで取りきったからまず大丈夫だよとしっかり言えること、かな?と。もちろん乳房というのはふたつあって、ひとつの人間の同じ特質をもったふたつの乳房なので、ほかに転移するよりもう片方の乳房にまた見つかる確率のほうが高いそうですが、もしもふたたび出てくることをそれほど気にしているなら全摘出もいいかもしれないね、と。


私は19歳と12歳の子供をすでに産み、育てるほうもほぼ終わりに近くなってきています。


もうおっぱいの必要はないし、実はすっごいペチャパイで、失ってしまっても、形よく大きな人ほどの喪失感はないように思っていました。




そんなことからやっぱり温存はしない!って思ったのです。
その自分のだした結論に不満はないのですが。。。。ノーテンキな私でも乳房が片方しかないことはそれなりのストレスを運んできました。
またとても不便を感じてもいます。
そのあたりはおいおい・・・・・




2009年2月13日金曜日

 にゅうがんはほとんどの場合、女性の病気です。

でもなかなか女性の間で情報が回りません。

手術で乳房を失ったり、治療で生理がとまったり、いろいろ女性としての機能に制限がくわわるので、人にうちあけにくい、のが原因だと思います。

かくいう私も情報がなくて本当に困りました。

どんな病気なのか、治療の方法にはどんなのがあるのか。

そういったことはいくらでも本を見ればわかるのですが、些細でたわいない疑問、みんなはどうしているの?という不安がぬぐえないのです。

体験者さん教えて!とネットを徘徊して見て回りましたが、それでも私の知りたいを満足させてくれるサイトがなかなかないのですよ。

 で、私がやってみるか、と思いました。

私は46歳の春ににゅうがん手術を受けて、左乳房を全摘出しました。

にゅうがんは小さかったのに脇の下のリンパ節に転移があったので、手術から体が回復すると、
抗がん剤治療を約8か月つづけました。

今はホルモン療法を受けています。

 放射線治療は未経験なのでわかりません。

抗がん剤についても使用したもの以外はわかりません。

それでも何かお役に立てるのではないかと思うのです。

少しずつ少しずつ書き足していきます。